国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(07) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(07)

    敵討ちの原因

 ところが、去年の春のことであったが、忠右衛門と左衛門とは、備中守殿によって、観桜の宴に招かれた。その席で二人の者は、国学の話については、遠慮し、大事を取り、云い争わなかったが、刀剣の話になった時、とうとう云い争いをはじめてしまった。忠右衛門が、天国《あまくに》という古代の刀工などは、事実は存在しなかったもので、したがって鍛えた刀などはないと云ったのに対し、左衛門は、いや天国は決して伝説中の人物ではなく、実在した人物であり、その鍛えた刀も残っておる、平家の重宝小烏丸《こがらすまる》などはそれであり、我が家にもかつて一振り保存したことがあったと主張し、激論の果て、左衛門は「水掛け論は無用、この上は貴殿と拙者、この場において試合をし、勝った方の説を、正論と致そう」と、その精悍の気象から暴論を持ち掛けた。忠右衛門は迷惑とは思ったが、引くに引かれず承知をし、試合をしたところ、剣技《うで》は左衛門の方が上ではあったが、長年肺を患《わずら》っていて、寒気を厭《いと》い、紙帳の中で生活しているという身の上で、体力において忠右衛門の敵でなく、忠右衛門のために打ち挫《ひし》がれ、自分から仕掛けた試合に負け、これを悲憤し、自宅へ帰るや、紙帳の中で屠腹《とふく》し、腸を紙帳へ叩き付けて死んだ。しかるに左衛門には、左門という忰があって、「父上を自害させたのは忠右衛門である」と云い、遊学先の江戸から馳せ帰り、一夜、忠右衛門を往来《みち》に要して討ち取り、行衛《ゆくえ》を眩《くら》ました。こうなってみると、伊東家においても、安閑としてはいられなくなり、
「頼母、そち、左門を探し出し、討って取り、父上の妄執を晴らせ」
 ということになり、さてこそ頼母は、復讐の旅へ出たのであったが、困ったことには、彼は討って取るべき、左門という人間を知らなかった。と云うのは、この時代の風習として、家庭《いえ》にいないで、江戸へ出、学問に精進していたからである。そう、頼母も左門も、幼少の頃から江戸に遊学し、頼母は、宣長の門人伴信友の門に入り、国学を修め、左門は、平田塾に入って、同じく国学を究める傍《かたわ》ら、戸ヶ崎熊太郎の道場に通い、神道無念流を学び、二人は互いにその面影を知らないのであった。
 キリキリという、轍の軋るような音を聞き、頼母は、枕から顔を放し、耳を聳《そばだ》てた。
(何んの音だろう?)
 音は、中庭まで来たようであった。
 頼母は、夜具から脱け出し、枕もとの刀を握ると、立ち上がった。彼の眼は、すっかり覚めていた。彼は、朝飯を食べるや、すぐに床を取って貰い、ぐっすりと眠り、疲労《つかれ》を癒《なお》し、今は元気を恢復してもいるのであった。有り明けの燈に、刀の鞘を照らしながら、頼母は部屋を出、廊下を右の方へ歩き、それが、さらに右の方へ曲がっている角の雨戸を、そっと開けて見た。海の底かのように、庭は薄蒼く月光に浸っていた。庭は、まことに広く、荒廃《あ》れていた。庭の一所に、頼母の眼を疑がわせるような、物象《もののかたち》が出来ていた。古塚のような形の、巨大な岩が、碑《いしぶみ》と小松とをその頂きに持って、瘤《こぶ》のように立っているのであった。それはまったく、頼母が、紙帳から出て来た武士によって、気絶させられた地点に――そこに出来ていた、野中の道了様そっくりのものであった。酷似《そっくり》といえば、塚の左手、遙か離れた所に、植え込みが立っていて、それが雑木林に見えるのも、あの場所の景色とそっくりであった。
(紙帳が釣ってはあるまいか?)ゾッとするような気持ちで、頼母は、植え込みを見た。しかし紙帳は釣ってはなかった。あの場所の景色と異《ちが》うところは、あそこでは、塚と林との彼方《むこう》が、広々と展開《ひら》けた野原だったのに、ここでは、土塀が、灰白《はいじろ》く横に延びているだけであった。
(碑には、髭題目が刻《ほ》られてあるに相違ない)こう思って、頼母は、縁から下り、塚の方へ歩いて行き、碑を仰いで見た。碑は、鉛めいた色に仄《ほの》見えていたが、はたして、南無妙法蓮華経という、七字の名号が、鯰《なまず》の髭のような書体で、刻られてあった。(不思議だなあ)と呟きながら、頼母は、少し湿ってはいるが、枯れ草が、氈《かも》のように軟らかく敷かれている地に佇《たたず》み、(道了様の塚を、何んのために、中庭などへ作ったのであろう?)
 急に彼は地へ寝た。




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