国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(08) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(08)

    老幽鬼出現

(こうここへ俺が気絶して仆《たお》れれば、あそこでの出来事を、再現したことになる)
 彼はしばらく寝たままで動かなかった。二十一歳とはいっても、前髪は立てており、それに、氏素姓よく、坊ちゃんとして生長《おいた》って来た頼母は、顔も姿も初々《ういうい》しくて、女の子のようであり、それが、雲一片ない空から、溢れるように降り注いでいる月光に照らされ、寝ている様子は、無類の美貌と相俟《あいま》って、艶《なまめ》かしくさえ見えた。
 と、例の、キリキリという音が、植え込みの方から聞こえて来た。頼母は飛び起きて、音の来る方を睨んだ。昨夜は、雑木林の中から、剣鬼のような男が現われて来たが、今夜は、植え込みの中から、何が現われて来るのだろう? 頼母は、もう刀の柄を握りしめた。おお何んたる奇怪な物象《もののかたち》が現われて来たことであろう! 躄《いざ》り車が、耳の下まで白髪を垂らした老人を乗せ――老人が自分で漕《こ》いで、忽然と、植え込みの前へ、出て来たではないか! やがて、植え込みの陰影《かげ》から脱け、躄り車は、月光の中へ進み出た。月光《ひかり》の中へ出て、いよいよ白く見える老人の白髪は、そこへ雪が積もっているかのようであり、洋犬のように長い顔も、白く紙のようであった。顔の一所《ひとところ》に黒い斑点《しみ》が出来ていた。窪んだ眼窩であった。その奥で、炭火《おき》のように輝いているのは、熱を持った眼であった。老人の体は、これ以上痩せられないというように、痩せていた。枯れ木で人の形を作り、その上へ衣裳を着せたといったら、その姿を、形容することが出来るだろう。左右の手が、二本の棒を持ち、胸と顔との間を、上下に伸縮《のびちぢみ》し、そのつど老人の上半身が、反《そ》ったり屈《かが》んだりした。二本の棒を櫂《かい》にして、地上を、海のように漕いで、躄《いざ》り車を、進ませてくるのであった。長方形の箱の左右に附いている、四つの車は、鈍《のろ》く、月光の波を分け、キリキリという音を立てて、廻っていた。と、車は急に止まり、老人の眼が、頼母へ据えられた。
「おお来たか!」
 咽喉《のど》で押し殺したような声であった。極度の怒りと、恐怖《おそれ》とで、嗄《しわが》れ顫《ふる》えている声でもあった。そう叫んだ老人は、棒を手から放すと、片手を肩の上へ上げ、肩の上へ、背後《うしろ》からはみ出していた刀の柄へかけた。刀を背負《しょ》っていたのである。それが引き抜かれた時、月光が、一時に刀身へ吸い寄せられたかのように、どぎつく[#「どぎつく」に傍点]光った。刀は青眼に構えられた。
「来たか、来栖勘兵衛! 来るだろうと思っていた! が、この有賀又兵衛、躄者《いざり》にこそなったれ、やみやみとまだ汝《おのれ》には討たれぬぞ! それに俺の周囲《まわり》には、いつも警護の者が附いている。今夜もこの屋敷には、六人の腕利きが宿直《とのい》している筈だ。勘兵衛、これ、汝に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での斬り合い、俺は今に怨みに思っておるぞ! 事実を誣《し》い、俺に濡れ衣《ぎぬ》を着せたあげく、俺の股へ斬り付け、躄者になる原因を作ったな。おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で立ち合い、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ! さあここに野中の道了がある、立ち合おう、刀を抜け!」それから屋敷の方を振り返ったが、「栞《しおり》よ、栞よ、勘兵衛が来たぞよ、用心おし、栞よ!」
 と悲痛に叫んだ。
 老人はそう叫びながら、やがて、片手で棒を握り、それで漕いで、躄者車《くるま》を前へ進め、片手で刀を頭上に振りかぶり、頼母の方へ寄せて来た。頼母は、唖然《あぜん》とした。しかし、唖然とした中にも、自分が人違いされているということは解った。それで、刀の柄へ手をかけたまま、背後《うしろ》へジリジリと下がり、
「ご老人、人違いでござる。拙者は来栖勘兵衛などという者ではござらぬ。拙者は、伊東頼母と申し、今朝より、ご当家にご厄介になりおる者でござる」と云い云い、つい刀を抜いてしまった。





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