国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(10) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(10)

    道了塚の秘密は

 栞の泣き声は高くなり、しばらくは物を云わなかった。肥《ふと》りざかりの、十七の娘にしては、痩せぎす[#「せぎす」に傍点]に過ぎる栞の肩は、泣き声につれて、小刻みに顫えるのであった。
「それもこれも……」と、栞は、やがて、途切れ途切れに云った。「父の心を……正体ない父の心を……少しなりとも慰めてやりたさに……才覚しまして……妾《わたくし》が……」
 顔から袖をとり、塚の頂きの碑を眺めた。南無妙法蓮華経という、七字だけが黒く、その周囲の碑の面は、依然、月の光で、鉛色に仄《ほの》めいて見えていた。
「父は」と、栞は、またも途切れ途切れに云った。「妾、物心つきました頃から、一里の道を、毎日のように、野中の道了様まで参りまして、塚の周囲を廻っては、物思いに耽りましたが……乱心しましてからは、それが一層烈しくなり、日に幾度となく……それですのに、父は躄者《いざり》になりましてございます」
 嗚咽《おえつ》の声はまた高くなった。娘は、父親を抱き締めたらしい。白髪の頭が、肩から外れて、栞の胸にもたれ[#「もたれ」に傍点]ている。
「父には以前から、股に刀傷がございましたが、弱り目に祟り目とでも申しましょうか、乱心しますと一緒に、悪化《わる》くなり、とうとう躄者《いざり》に……」
 草に落ちている抜き身は、氷のように光っている。庭のそちこちに咲いている桜は、微風に散っている。
「躄者になりましても、道了様へは行かねばならぬと……そこは正気でない父、子供のように申して諾《き》きませぬ。躄車《くるま》などに乗せてやりましては、世間への見場悪く、……いっそ、道了様を屋敷内へお遷座《うつ》ししたらと……庭師に云い付け、同じ形を作らせましたところ、虚妄《うつろごころ》の父、それを同じ道了様と思い、このように躄車に乗り、朝晩にその周囲《まわり》を廻り……」
 悲しそうに、また栞は、眠りこけている父親を見やるのであった。
 身につまされて聞いていた頼母は、いつか、栞の前へ腰を下ろし、腕を組んだ。
 急に栞は、怒りの声で云った。
「父を脅かす者は、松戸の五郎蔵なのでございます。父は妾《わたくし》に申しました。『五郎蔵が殺しに来る。彼奴《きゃつ》には大勢の乾児《こぶん》があるが、俺《わし》には乾児など一人もない。味方が欲しい、旅のお侍様などが訪ねて参ったら、泊め置け』と。……」
(そうだったのか)と頼母は思った。(不思議に厚遇されると思ったが、さては、いつの間にか俺は、この屋敷の主人の、警護方にされていたのか)しかし事情が事情だったので、怒りも、笑いも出来なかった。
 更けて行く夜は、次第に寒くなって来た。老人をいつまでも捨てておくことは出来なかった。二人は、躄車《くるま》を押して、屋敷の方へ行くことにし、頼母は、まず、草に捨ててある刀を拾い取り、老人の背の鞘へ差してやった。それから躄車を押しにかかった。
「勿体《もったい》のうございます」
 栞が周章《あわ》てて止めた。手が触れ合った。
「あっ」
 栞の声が情熱をもって響いた。
「ああ」
 思春期の処女《おとめ》というものは、男性《おとこ》のわずかな行動によって、衝動を受けるものであり、そうしてその処女が、愛と良識とに恵まれている者であったら、衝動を受けた瞬間、相手の男性の善悪を、直観的に識別《みわ》け、その瞬間に、将来を托すべき良人《おっと》を――恋人を、認識《みとめ》るものである。狂人の、孤独の父親に仕え、化物《ばけもの》屋敷のような廃《すた》れた屋敷に住み、荒らくれた浪人者ばかりに接していた、無垢《むく》純情の栞が、今宵はじめて、名玉のように美しく清い、若い武士と、不幸な一家のことについて語り合ったあげく、偶然手を触れ合ったのであった。その一触が、彼女の魂を、根底から揺り動かし、「叫び」となって、彼女の口から出たのは、無理だとは云えまい。頼母は、栞の叫び声に驚いて、栞を見詰めた。栞の眼に涙が溢れていた。しかしその涙は、さっき、父親や、自分の家の不幸のために泣いた涙とは違い、歓喜と希望と愛情とに充ちた涙であった。栞の頬は夜眼にも著《しる》く赤味注《さ》していた。頼母は、何が栞をそうまで感動させたのか解らなかった。手と手と触れ合ったことなど、彼は、気がつかなかったほどである。それほど彼は無邪気なのであった。しかし、栞の感動が、自分を愛してのそれであるということは直覚された。このことが今度は彼を感動させた。
(この娘がわし[#「わし」に傍点]を!)
 その娘は、自分にとっては命の恩人と云えた。この娘の介抱がなかったら、自分は今朝死んでいたかもしれない!
(この娘がわし[#「わし」に傍点]を!)
 頼母の心へ感謝の念が、新たに強く湧き、それと一緒に、愛情がヒタヒタと寄せて来るのを覚えた。
 立ち尽くし、見詰め合っている二人の頭上には、練り絹に包まれたような朧《おぼ》ろの月がかかってい、その下辺《したべ》を、帰雁《かえるかり》の一連《ひとつら》が通っていた。花吹雪が、二人の身を巡った。
「勘兵衛!」と、不意に老人が叫んだ。「天国《あまくに》の剣を奪ったのも汝《おのれ》の筈じゃ! それをこの身に!」
(天国?)と、頼母は、ヒヤリとし、恍惚の境いから醒めた。
(この老人も、天国のことを云う!)
 父、忠右衛門が、横死をとげ、自分が復讐の旅へ出るようになったのも、元はといえば、天国の剣の有無の議論からであった。頼母は、天国の名を聞くごとに、ヒヤリとするのであった。
(紙帳から出て来て、俺に体あたり[#「あたり」に傍点]をくれた武士も、天国のことを云ったが、薪左衛門殿も、天国のことを……)
 頼母は、薪左衛門を見た。薪左衛門は眠っていた。眠ったままの言葉だったのである。





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