国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(14) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(14)

    お浦の恋情

「昼の間、五郎蔵殿の賭場へ参った者じゃ」
「あれ、それじゃア、まんざら見ず知らずの仲じゃアないのね」
「それに、同宿の誼《よし》みもある」
「同宿?」
「拙者は、府中の武蔵屋に泊まっておる」
 編笠の武士、すなわち、伊東頼母は、そう、今日、府中へ来ると、五郎蔵一家が、武蔵屋へ宿を取っていると聞き、近寄る便宜にもと、同じ旅籠《はたご》へ投じたのであった。しかるに、五郎蔵はじめその一家が、もう賭場へ出張ったと聞き、自分も賭場へ出かけて行ったのであった。
「まあ。武蔵屋に。それはそれは。妾も、武蔵屋の婢女《おんな》でござんす」
「賭場で、典膳という奴、五郎蔵殿へ因縁つけたのを見ていた。殺されても仕方ない」
「それで安心。……妾アどうなることかと。……でも、芳志《こころざし》には芳志を。……失礼ながら旅用の足《た》しに……」
 と、お浦が、胴巻の口へ手を入れたのを、頼母は制し、
「他に頼みがござる」
「他に……」お浦は、意外に思ったか、首を傾《かし》げたが、何か思いあたったと見え、やがて、月光の中で、唇をゆがめ、酸味《すみ》ある笑い方をしたかと思うと、「弱いところを握られた女へ、金の他に頼みといっては、さあ、ホッ、ホッ」
「誤解しては困る」
 と、頼母は、少し周章《あわ》てた。しかし厳粛の声で、「不躾《ぶしつ》けの依頼をするのではない」
「では……」
「賭場に神棚がありましたのう」
「ようご存知」
「ご神体は?」
「はい、天国とやらいう刀……」
「天国※[#感嘆符疑問符、1-8-78] おお、やっぱり! ……お浦殿、その天国を拝見したいのじゃが」
「天国様を? ……異《い》なお頼み。……何んで?」
「拙者は武士、武士は不断に、名刀を恋うるもの。天国は、天下の名器、至宝中の至宝、武士冥利、一度手に取って親しく」
「なるほどねえ、さようでございますか。……いえ、さようでございましょうとも、女の身の妾などにしてからが、江戸におりました頃、歌舞伎を見物《み》、水の垂れそうに美しい、吉沢あやめの、若衆姿など眼に入れますと、一生に一度は、ああいう役者衆と、一つ座敷で、盃のやり取りしたいなどと。……同じ心持ち、よう解りまする。……では何んとかして、あの天国様を。……おおちょうど幸い、五郎蔵親分には、あの天国様を、賭場へ行く時には賭場へ持って行き、宿へ帰る時には宿へ持って帰りまする。……今夜妾がこっそり持ち出し、あなた様のお部屋へ……」
「頼む」
「お部屋は?」
「中庭の離座敷《はなれ》」
「お名前は?」
「伊東頼母」
「お顔拝見しておかねば……」
 頼母は、そこで編笠を脱いだ。
 お浦はその顔を隙《す》かして見たが、「まあ」と感嘆の声を上げた。「ご縹緻《きりょう》よしな! ……お前髪立ちで! 歌舞伎若衆といおうか、お寺お小姓と云おうか! 何んとまアお美しい!」
 見とれて、恍惚《うっとり》となったが、
「女冥利、妾アどうあろうと……」
 と、よろめくように前へ出た。
 若衆形吉沢あやめに似ていると囃された、無双の美貌の頼母が、月下に立った姿は、まこと舞台から脱《ぬ》け出した芝居の人物かのようで、色ごのみの年増女などは、魂を宙に飛ばすであろうと思われた。前髪のほつれが、眉のあたりへかかり、ポッと開けた唇から、揃った前歯が、つつましく覗いている様子など、女の子よりも艶《なまめ》かしかった。
「天国様は愚か、妾ア……」
 と、寄り添おうとするのを、
「今夜、何時に?」
 と、頼母は、お浦を押しやった。
「あい、どうせ五郎蔵親分が眠ってから……子《ね》の刻頃……」
「間違いござるまいな」
「何んの間違いなど。……あなた様こそ間違いなく……」
「お待ちしましょう」
 と、云い棄て、頼母は歩き出した。お浦は、その背後《うしろ》姿を、なお恍惚とした眼付きで見送ったが、
(妾ア、生き甲斐を覚えて来たよ)




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