国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(15) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(15)

    紙帳の中

 この夜が更けて、子の刻になった時、府中の旅籠屋、武蔵屋は寝静まっていた。
 と、お浦の姿が、そこの廊下へ現われた。廊下の片側は、並べて作ってある部屋部屋で、襖によって閉ざされていたが、反対側は中庭で、月光が、霜でも敷いたかのように、地上を明るく染めていた。質朴な土地柄からか、雨戸などは立ててない。お浦は廊下を、足音を忍ばせて歩いて行った。廊下が左へ曲がった外れに、離座敷《はなれ》が立っていた。藁葺《わらぶ》き屋根の、部屋数三間ほどの、古びた建物で、静けさを好む客などのために建てたものらしかった。離座敷は、月に背中を向けていたので、中庭を距てた、こっちの廊下から眺めると、屋根も、縁側も、襖も、一様に黒かった。お浦は、そこの一間に、自分を待っている美しい若衆武士のことを思うと、胸がワクワクするのであった。(早くこの天国様をお目にかけて、その代りに……)と、濃情のこの女は、刀箱を抱えていた。
 やがて、離座敷の縁側まで来た。お浦は、年にも、茶屋女という身分にも似ず、闇の中で顔を赧らめながら、部屋の襖をあけ、人に見られまいと、いそいで閉め、
「もし。……参りましたよ」
 と虚《うつろ》のような声で云い、燈火《ともしび》のない部屋を見廻した。と、闇の中に、仄白く、方形の物が懸かっていた。
(おや?)とお浦は近寄って行った。紙帳であった。(ま、どうしよう、部屋を間違えたんだよ)
 と、あわてて出ようとした時、紙帳の裾から、白い、細い手が出て……、
「あれ!」
 しかし、お浦は、紙帳の中へ引き込まれた。
 附近《ちかく》の農家で飼っていると見え、家鶏《にわとり》の啼き声が聞こえて来た。
 部屋の中も、紙帳の中も静かであった。
 紙帳は、闇の中に、経帷子《きょうかたびら》のように、気味悪く、薄白く、じっと垂れている。
 家鶏《とり》の啼いた方角から、今度は、犬の吠え声が聞こえて来た。祭礼の夜である、夜盗などの彷徨《さまよ》う筈はない、参詣帰りの人が、遅く、その辺を通るからであろう。
 やがて、燧石《いし》を切る音が、紙帳の中から聞こえて来、すぐにボッと薄黄いろい燈火《ひのひかり》が、紙帳の内側から射して来た。
 さてここは紙帳の内部《なか》である。――
 唐草の三揃いの寝具に埋もれて、お浦が寝ていた。夜具の襟が、頤の下まで掛かってい、濃化粧をしている彼女の顔が、人形の首かのように、浮き上がって見えていた。眼は細く開いていて、瞳が上瞼《うわまぶた》に隠され、白眼ばかりが、水気を帯びた剃刀《かみそり》の刀身《み》かのように、凄く鋭く輝いて見えた。呼吸をしている証拠として、額から、高い鼻の脇を通って、頬にかかっている後《おく》れ毛が、揺れていた。しかし尋常の睡眠《ねむり》とは思われなかった。気を失っているのらしい。
 そのお浦の横に、夜具から離れ、畳の上に、膝を揃え、端然と、五味左門が坐っていた。
 ふと手を上げて鬢《びん》の毛を撫でたが、その手を下ろすと、ゆるやかに胸へ組み、
「蜘蛛《くも》はただ網を張っているだけだ」と、呟いた。
「その網へかかる蝶や蜂は……蝶や蜂が不注意《わるい》からだ」
 と、また、彼は呟いた。
 独言《ひとりごと》を云うその口は、残忍と酷薄とを現わしているかのように薄く、色も、赤味などなく、薄墨のように黒かった。
 それにしても、紙帳に近寄る男は斬り、紙帳に近寄る女は虐遇《さいな》むという、この左門の残忍性は、何から来ているのであろう?
 紙帳生活から来ているのであった。
 彼の父左衛門は、生前、春、秋、冬を、その中に住み、夏は紙帳《きれ》を畳んで蒲団の上に敷き、寝茣蓙代りにしたが、左門も、春、秋、冬をその中に住み、夏は寝茣蓙代りに、その上へ寝た。そういうことをすることによって、亡父《ちち》の悩みや悶えを体得したかったのである。そう、彼の父左衛門は、紙帳に起き伏ししながら、天国の剣を奪われて以来衰えた家運について、悩み悶えたのであった。……しかるに左門は、紙帳の中で起き伏しするようになってから、だんだん一本気《いっこく》となり、狭量となり、残忍殺伐となった。何故だろう? 狭い紙帳を天地とし、外界《そと》と絶ち、他を排し、自分一人だけで生活《くら》すようになったからである。そういう生活は孤独生活であり、孤独生活が極まれば、憂欝となり絶望的となる。その果ては、気の弱い者なら自殺に走り、気の強いものなら、欝積している気持ちを、突発的に爆発させて、兇暴の行為をするようになる。左門の場合はその後者で、無意味といいたいほどにも人を斬り、残忍性を発揮するのであった。
「突然はいって来たこの女は? ……」
 呟き呟き彼は、女の寝顔を見た。その眼は、※[#「足」の「口」に代えて「彡」、第3水準1-92-51]《しんにゅう》の最後の一画を、眉の下へ置いたかのように、長く、細く、尻刎ねしていた。
「これは何んだ?」と、女の枕もとに転がっている、白い風呂敷包みの、長方形の物へ眼を移した時、彼は呟いた。やがて彼は手を延ばし、風呂敷包みを引き寄せ、包みを解いた。白木の刀箱が現われた。箱の表には、天国と書いてある。
「天国?」
 彼は、魘《うな》されたような声で呟いた。瞬間に、額こそ秀でているが、顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》の低い、頬の削《こ》けた、鼻が鳥の嘴《くちばし》のように鋭く高い、蒼白の顔色の、長目の彼の顔が、注した血で、燃えるように赧くなった。烈しい感動を受けたからである。
「天国?」
 彼の肩がまず顫《ふる》え、その顫えが、だんだんに全身へ伝わって行った。
「天国? ……まさか!」
 にわかに、彼は口を歪め、眼尻へ皺を寄せた。嘲笑ったのである。
「まさか、こんな所に天国が!」
 しかも彼の眼は、刀箱の箱書きの文字に食い付いているのであった。
 彼が天国の剣に焦《こ》がれているのは、親譲りであった。彼の父、左衛門は、生前彼へこう云った。「我が家には、先祖から伝わった天国の剣があったのじゃ。それを今から二十年前、来栖勘兵衛、有賀又兵衛という、浪人の一党に襲われ、奪われた。……どうともして探し出して、取り返したいものだ」と。――その左衛門が、自殺の直後、忰《せがれ》左門へ宛てて認《したた》めた遺書には、万難を排して天国を探し出し、伊東忠右衛門一族に示せよとあった。父の敵《かたき》として忠右衛門を討ち取り、父の形見として紙帳を乞い受け、故郷を出た左門が、日本の津々浦々を巡っているのも、天国を探し出そうためであった。その天国がここにあるのである。
「信じられない!」
 彼はまた魘されたような声で云った。そうであろう、蜘蛛の網にかかった蝶のように、紙帳の中へはいって来た、名さえ、素姓さえ知らぬ女が、天下の至宝、剣の王たる、天国を持っていたのであるから。
「……しかし、もしや、これが本当に天国なら……」
 それでいて彼は、早速には、刀箱の蓋《ふた》を開けようとはしなかった。開けて、中身を取り出してみて、それが贋物《にせもの》であると証明された時の失望! それを思うと、手が出せないのであった。まさか! と思いながら、もし天国であったなら、どんなに嬉しかろう! この一縷《る》の希望を持って、左門は、尚も刀箱を見据えているのであった。
「これが天国なら、この天国で、伊東頼母めを返り討ちに!」
 また、呻《うめ》くように云った。




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