国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(16) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(16)

    恩讐壁一重

 彼は、故郷《くに》からの音信《たより》で、忠右衛門の忰の頼母が、自分を父の敵だと云い、復讐の旅へ出たということを知った。彼は冷笑し、(討ちに来るがよい、返り討ちにしてやるばかりだ)とその時思った。そうして現在《いま》では、天国を求める旅のついでに、こっちから頼母を探し出し、討ち取ろうと心掛けているのであった。
 正気に甦《かえ》ると見えて、お浦が動き出した。肉附きのよい、ムッチリとした腕を、二本ながら、夜具から脱き、敷き布団の外へ抛り出した。
 と、左門は、刀箱を掴んだが、素早く、自分の背後へ隠し、その手で、膝脇の自分の刀を取り上げた。女が正気に返り、騒ぎ出したら、一討ちにするつもりらしい。武道で鍛えあげた彼の体は、脂肪《あぶら》も贅肉《ぜいにく》も取れて、痩せすぎるほどに痩せていた。それでいて硬くはなく、撓《しな》いそうなほどにも軟らかく見えた。そういう彼が、左の手に刀を持ち、それを畳の上へ突き及び腰をし、長く頸を延ばし、上からお浦を覗き込んでいる姿は、昆虫――蜘蛛が、それを見守っているようであった。紙帳の中へ引き入れられてある行燈《あんどん》の、薄黄いろい光は、そういう男女を照らしていたが、男女を蔽うている紙帳をも照らしていた。内部《うち》から見たこの紙帳の気味悪さ! 血蜘蛛の胴体《どう》は、厚味を持って、紙帳の面に張り付いていた。左衛門が投げ付けた腸《はらわた》の、皮や肉が、張り付いたままで凝結《こご》ったからであった。それにしても、蜘蛛の網が、何んとその領分を拡大《ひろ》めたことであろう! 紙帳の天井にさえ張り渡されてあるではないか。血飛沫《ちしぶき》によって作られた網が! 思うにそれは、先夜、飯塚薪左衛門の屋敷で、左門によって討たれた浪人の血と、片足を斬り取られた浪人の血とによって、新規《あらた》に編まれた網らしく、血の色は、赤味を失わないで、今にも、糸のように細い滴《しずく》を、二人の男女《もの》へ、したたらせはしまいかと思われた。
 お浦は、夜具からはみ出した腕を、宙へ上げ、何かを探すような素振りをしたが、
「頼母様! 天国様を持って参りました!」
 と叫んだ。もちろん、夢中で叫んだのである。

 その頼母は、ずっと以前《まえ》から、壁一重へだてた隣りの部屋《へや》に、お浦を待ちながら、粛然と坐り、「一刀斎先生剣法書」を、膝の上へ載せ、行燈の光で、読んでいた。
 下婢《おんな》の敷いて行った寝具《よるのもの》は、彼の手で畳まれ、部屋の片隅に置かれてあった。女を待つに寝ていてはと、彼の潔癖性が、そうさせたものらしい。前髪を立てた、艶々しい髪に包まれた、美玉のような彼の顔は、淡く燈火の光を受けて、刻《ほ》りを深くし、彫刻のような端麗さを見せていた。
「事ノ利ト云フハ、我一ヲ以《モツ》テ敵ノ二ニ応ズル所也。譬《タトヘ》バ、撃チテ請《ウ》ケ、外シテ斬ル。是レ一ヲ以テ二ニ応ズル事也。請ケテ打チ、外シテ斬ルハ、一ハ一、二ハ二ニ応ズル事也。一ヲ以テ二ニ応ズル時ハ必ズ勝ツ」
 彼は口の中で読んで行った。
(すなわち、積極的に出れば必ず勝つということなのだな)
 彼は、本来が学究的の性格だったので、剣道を修めるにも、道場へ通って、竹刀《しない》や木刀で打ち合うことだけでは満足しないで、沢庵禅師の「不動智」とか、宮本武蔵の「五輪の書」とか、そういう聖賢や名人の著書を繙《ひもと》くことによって、研究を進めた。今、「一刀斎先生剣法書」を読んでいるのもそのためであった。
(積極的に出れば必ず勝つということだな……少なくも、五味左門と出合った時には、この法で、この意気で、立ち合わなければならない)
(お浦はどうしたものであろう?)
 頼母は、「一刀斎先生剣法書」から眼を放し、考えた。
 さっき、縁側で人の気配がしたので、それかと思ったところ、隣りの部屋の襖が開き、そこへはいって行ったらしく、音沙汰なくなった。その後は、人の来る様子もなかった。
(浮気者らしかったお浦、俺のことなど忘れてしまったのかも知れない)
 時が経って行った。寝静まっている旅籠《はたご》からは、何んの物音も聞こえて来なかった。




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