国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(17) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(17)

    立ち向かった左門と頼母

 突然、隣りの部屋から、女の叫び声の聞こえて来たのは、さらにそれからしばらく経った後のことであった。(はてな?)と頼母は耳を澄ました。(変だ!)……というのは、その女の叫び声が「頼母様!」と聞こえ、「天国様を」と聞こえたからであった。しかしそれだけで、後は聞こえて来なかった。
(空耳だったかな)
 そのくせ頼母は、傍《かたわ》らの刀を掴み、立ち上がった。襖をあけて縁側へ出た。すぐ眼にはいったのは、月光で、霜でも降ったように見える広い中庭と、中庭を距《へだ》てて立っている母屋《おもや》とであった。縁側を左の方へ数歩あゆめば隣り部屋の前へ行けた。そこで頼母は足音を忍ばせ、隣り部屋の前まで行き、また、耳を澄ました。たしかに人のいる気配はあったが、声は聞こえなかった。
(これからどうしたものだろう?)
 不躾《ぶしつ》けに襖をあけることは出来なかった。とはいえ、女の声で、自分の名を呼び、天国様をと云ったからには、――空耳でないとして――声の主を確かめたかった。
(まさかお浦が、こんな部屋《ところ》へ来ていようとは思われないが……)
 しかし……いや、しかしも何もない、声の主を確かめさえすればよいのだ! ……しかし、それをするには、やっぱり襖をあけなければ……。
(咎《とが》められたら、部屋を間違えたと云えばよい)
 頼母は、わざと無造作に襖をあけた。
「あッ」
 声と一緒に、ほとんど夢中で、頼母は、庭へ飛び下り、これも夢中で抜いた刀を、中段に構え、切っ先越しに、部屋の中を睨《にら》んだ。
 見誤りではなかった。帳内《なか》で灯っている燈の光で、橙黄色《だいだいいろ》に見える紙帳が、武士の姿を朦朧《もうろう》と、その紙面《おもて》へ映し、暗い部屋の中に懸かっている。
(林の中に釣ってあった紙帳だ。では、あの中にいる武士は、五味左門に相違ない。……先夜は、知らぬこととはいえ、同じ飯塚薪左衛門殿の屋敷へ泊まり合わせ、今夜は、同じこの旅籠の、しかも壁一重へだてた部屋に泊まり合わせようとは)
 運命の不思議さ気味悪さに、頼母は、一瞬間茫然としたが、
(左門は親の敵、あくまで討ち取らなければならないのであるが、あの凄い腕前では……)
 体の顫えを覚えるのであった。
 しかし彼にとって、一抹の疑惑があった。紙帳は、左門ばかりが釣っているとは限らない。紙帳の中の武士は、左門ではないかもしれない……。
(何んといって声をかけたらよかろうか?)
 彼はしばらく紙帳を睨んで躊躇《ためら》った。
 紙帳は、そういう彼を、嘲笑うかのように、そよぎ[#「そよぎ」に傍点]もしないで垂れている。
「卒爾ながら、紙帳の中のお方にお訊ね致す」
 と、とうとう頼母は、少し強《こわ》ばった声で云った。
「貴殿、先夜、飯塚薪左衛門殿の屋敷へ、お泊まりではなかったかな」
 こう云ってから、これはいいことを訊いたと思った。泊まったといえば、紙帳の中の武士は、五味左門に相違ないからであった。何故というに、左門は、先夜、自分の本名を宣《なの》って、薪左衛門の屋敷へ泊まったということであるから。
 しかし紙帳の中からは、返辞がなく、紙帳に映っている人影も、動かなかった。
 頼母は焦心《あせり》を感じて来た。それで、ジリジリと、縁側の方へ歩み寄りながら、
「貴殿はもしや、五味左門と仰せられるお方ではござらぬかな?」と訊いた。
 すると、ようやく、紙帳に映っている人影が動き、嗄《しわが》れた声で、
「そう云われる貴殿は、どなたでござるかな?」
 と訊き返した。
「拙者は……」
 と、頼母は云ったが、当惑した。本名を宣るものだろうか、それとも、偽名を使ったものだろうか?
(相手が五味左門なら、当然宣りかけて討ち取らなければならないし、もしまた人違いなら、無断に襖をあけ、抜き身をさえ構えて誰何《すいか》した無礼を、これまた、本名を宣って詫びなければならないのだから……)
 頼母は、本名を宣ることにした。
「拙者ことは、伊東頼母と申し、隣りの部屋へ泊まり合わせたものでござる」
 俄然騒動が起こった。
「おお頼母様でございますか! 妾《わたし》はお浦でございます! ……部屋を取り違えて……」
 という声が、紙帳の中から起こり、すぐに、女の立ち上がる影法師が、紙帳の面へ映った。が、それは一瞬間で、たちまち悲鳴が起こり、女の姿が仆《たお》れるのが見え、つづいて燈火が消え、部屋の闇の中に、ぼんやりと白く紙帳ばかりが残った。
 しかし、やがて、紙帳の裾が、鉄漿《おはぐろ》をつけた口のようにワングリと開き、そこから、穴から出る爬虫類《ながむし》かのように、痩せた身長《せい》の高い武士が出て来た。刀をひっさげた左門であった。左門は、縁先まで一気に出、その気勢に圧せられ、後へ退り、抜き身を構えている頼母を睨《にら》んだが、
「貴殿が伊東頼母殿か、拙者は五味左門、巡り逢いたく思いながら、これまでは縁なくて逢いませなんだが、天運拙《つたな》からず今宵《こよい》逢い申したな。本懐! ……貴殿にとっては拙者は、父の敵でござろうが、拙者にとっても貴殿は、父の敵の嫡宗《ちゃくそう》、恨《うら》みがござる! 果たし合いましょうぞ!」
 と、例の、嗄れた、陰湿とした声で云った。




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