国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(19) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(19)

    紙帳を巡って

 左門に逢ったなら「我の一を以《も》って敵の二に応じ」よう。すなわち、攻撃的に出て、機先を制しようなどと考えていた頼母は、相手の構えを見ただけで、萎縮してしまった。しかし、心中の怒りは、その反対に昂《たか》まった。恋人などではないお浦が、どう左門に扱われようと、意に介するところではなかったが、しかし、左門が、お浦をこの身の恋人と解し、その恋人を……そうしてこの身を嘲笑していることが、怒りに堪えなかった。天国を左門に取られたことも、欝忿《うっぷん》であった。自分の手へ渡ったなら、打ち砕くべき天国なので、刀そのものに執着があるのではなかったが、左門の手へ渡ったとあっては、自分の父忠右衛門の、天国不存在説が、あまりにもハッキリと破壊されたことになる。欝忿を感ぜざるを得なかった。
(父の敵、自分の怨み、汝《おのれ》左門、討たいで置こうか!)
 怒りは頼母を狂気させた。
 しかし左門の凄さ!
(どうしよう?)
 この時、忽然と思い出されたは、やはり伊藤一刀斎の、剣道の極意を詠った和歌であった。
(切り結ぶ太刀《たち》の下こそ地獄なれ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。……そうだ、身を捨ててこそ!)
 頼母は猛然と斬り込んだ。
 と、その瞬間、左門は、水の引くように、滑《なめ》らかに後へ退いた。
(逃げるぞ!)
 頼母は驚喜した。自分の気勢に恐れて、左門が逃げたと思ったからであった。頼母は追った。
 何んたる軽捷《けいしょう》! 左門は、背後《うしろ》ざまに縁の上へ躍り上がった。構えは? 依然として逆ノ脇! そこへ柳が生えたかのように、嫋《しなや》かに、少し傾き、縁先まで追って来た頼母を見下ろしている。危ないかな頼母! 左門の、例の、肩から左胴まで柔らかに湾曲している腕が延び、その手に握られて、背後ざまに隠されている刀が、電光のように閃めき出た時、お前の脳天は、鼻から頤まで、切り割られるのを知らないのか!
 それにしても左門は、何んのために縁まで退いたのであろう? 暗い部屋の中の、灰白い紙帳を背後にして立っている左門が、心の中で叫んでいる声を聞いたなら、その理由を知ることが出来よう。
「父上よ父上よ、あなたを辱《はず》かしめ、あなたを憤死させました、忠右衛門の忰頼母めを、今こそ討ち取りまして、父上の怨みの残りおります紙帳へ、その血を注ぐでございましょう。止どめは、天国の剣で致しまする」
 つまり左門は、頼母の血を、亡父の怨恨《うらみ》の残っている紙帳へ注いでやろうと、紙帳間近まで、頼母を誘《おび》き寄せて来たのであった。
 そうと知らない頼母は不幸であった。自分の気勢に圧せられて逃げる左門、たかが知れている! もう一息だ! こう思った頼母は不幸であった。
 微塵《みじん》になれ! と、頼母は、縁へ躍り上がり、斬り付けた。
「あッ」
 左門の姿が消え、眼前に紙帳が、風に煽《あお》られたかのように、戦《そよ》いでいた。
(部屋の中へ逃げ込んだのだな)
 頼母は突嗟《とっさ》に思った。
(紙帳の中へはいった筈はない。……では、背後に?)
 さすがに用心をし、頼母はソロソロと部屋の中へはいって行った。敷居を跨《また》ぎ左右を見た。正面三、四尺の間隔《へだたり》を置いて、紙帳が釣ってあり、その左右は闇であり、闇の彼方《あなた》には、部屋の壁が立っている筈であった。……左門の姿はどこにも見えなかった。
(紙帳の背後に隠れているのか、それとも、左右どっちかの、紙帳の横手に、身をひそめているのか?)
 頼母は、紙帳を巡って、敵を討とうと決心しながらも、右へ行こうか、左へ行こうかと迷った。しかしとうとう、左手へ心を配りながら、右の方へ進んだ。紙帳の角がすぐ前にあった。角の向こう側に、左門が隠れているかもしれない。頼母は、やにわに刀を突き出して見た。闇を突いたばかりであった。額に、冷たい汗を覚えながら、頼母はホッと息を洩らし、紙帳の角まで進んだ。前方《むこう》を睨んだ。部屋の壁と、紙帳の側面とで出来ている空間が、ただ、暗く細長く見えるばかりで、敵の姿は見えなかった。頼母は、ソロソロと進んだ。すぐに、紙帳の二つ目の角まで来た。
 頼母の足は動かなくなった。(あの角の向こう側にこそ)こう思うと、居縮《いすく》むのであった。ほんのさっきまで、左門など何者ぞと、気負い込んでいた彼の自信も勇気も、今は消えてしまった。技倆《うで》の相違がそうさせるのであり、十畳敷きほどの狭いこの部屋の中に、恐ろしい相手が確かにおりながら、その姿が見えないということが、そうさせるのであった。
(どうしたものか?)
 この時、霊感のようなものが心に閃めいた。
 頼母はやにわに刀を空に揮《ふる》った。紙帳の釣り手を切ったのである。紙帳の一角が、すぐに崩れ出した。やわやわと撓《たわ》み、つづいて沈み、方形であった紙帳が、三角の形となって、暗い中に懸かって見えた。しかし、左門の姿は見えなかった。三つ目の紙帳の角へ来て、その釣り手を切った時にも、左門の姿は見えなかった。紙帳は今や、二つの釣り手を切られ、庭に面した残りの二筋の釣り手によって、掲げられているばかりとなり、開けられてある襖を通し、中庭が見えていた。
(左門の隠れ場所が解った。紙帳の四つ目の角の蔭だ)頼母はこう思った。




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