国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(22) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(22)

    子供を産む妖怪蜘蛛

 五郎蔵は地団駄を踏み、いつか抜いた長脇差しを振り冠り、左門へ走りかかったが、にわかに足を止め、離座敷《はなれ》の方を眺めると、
「蜘蛛《くも》が! 大蜘蛛が!」
 と喚き、脇差しをダラリと下げてしまった。
 畳数枚にもあたる巨大な白蜘蛛が、暗い洞窟の中から這い出すように、今、離座敷《はなれ》の、左門の部屋から、縁側の方へ這い出しつつあった。背を高く円く持ち上げ、四本の足を引き摺るように動かし、やや角ばって見える胴体を、縦に横に動かし――だから、太い、深い皺を全身に作り、それをウネウネと動かし、妖怪《ばけもの》蜘蛛は、やがて縁から庭へ下りた。と、離座敷が作っている地上の陰影《かげ》から、蜘蛛は、月の光の中へ出た。蜘蛛の白い体に、無数に附着《つ》いてる斑点《まだら》は、五味左衛門の腸《はらわた》によって印《つ》けられた血の痕であり、その後、左門によって、幾人かの人間が斬られ、その血が飛び散って出来た斑点でもあった。そうして、この巨大な妖怪蜘蛛は、紙帳なのであった。では、四筋の釣り手を切られ、さっきまで、部屋の中に、ベッタリと伏し沈んでいた紙帳が、生命《いのち》を得、自然と動き出し、歩き出して来たのであろうか? 幾人かの男女が、その内外で、斬られ、殺されて、はずかしめられ、怨みの籠っている紙帳である、それくらいの怪異は現わすかもしれない。
 庭を歩いて行く紙帳蜘蛛は、やがて疲労《つか》れたかのように、背を低めて地へ伏した。しかしすぐに立ち上がった。背が高く盛り上がった。と、それに引き絞られて、紙帳の四側面が内側へ窪み、切られ残りの釣り手の紐《ひも》を持った四つの角が、そのためかえって細まり、さながら四本の足かのようになった。窪んだ箇所は黒い陰影を作り、隆起している角は骨のように白く見えた。紙帳蜘蛛は歩いて行く。と、蜘蛛は、地面へ、子供を産み落とした。彼が地面へ伏し沈み、やがて立って歩き出したその後へ、長い、巾の小広い、爬虫類を――蛇《くちなわ》を産み落としたのである。しかしそれは、黒繻子《くろじゅす》と、紫縮緬とを腹合わせにした、女帯であった。女帯は、地上に、とぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻き尻尾《しっぽ》にあたる辺を裏返し、その紫の縮緬の腹を見せていた。蜘蛛は、自分の影法師を地に敷きながら、庭を宛《あて》なく彷徨《さまよ》って行った。と、また子供を産み落とした。紅裏をつけた、藍の小弁慶の、女物の小袖であった。蜘蛛は、庭の左手の方へ、這って行った。
 やがて、母屋と離座敷《はなれ》との間の通路《みち》から、この旅籠《はたご》、武蔵屋の構外《そと》へ出ようとした。そうしてまたそこで、地上へ、血溜りのような物を――胴抜きの緋の長襦袢を産み落とした。
 三個の死骸を間に挾み、左門と向かい合い、隙があったら斬り込もうと、刀を構えていた頼母も、その背後に、後見でもするように、引き添っていた五郎蔵も、刀を逆ノ脇に構え、頼母と向かい合っていた左門も、その左門を遠巻きにしていた五郎蔵の乾児たちも、そうして、この中庭の騒動に眼を覚まし、母屋の縁や、庭の隅などに集まっていた、無数の泊まり客や、旅籠の婢《おんな》や番頭たちは、この、紙帳蜘蛛の怪異に胆を奪われ、咳一つ立てず、手足を強張《こわば》らせ、呼吸《いき》を呑んでいた。不意に、左門の口から、呻くような声が迸ったかと思うと、紙帳を追って走り出した。
「遁《の》がすな!」という、五郎蔵の、烈しい声が響いた。瞬間に、乾児たちが、再度、四方から、左門へ斬りかかって行く姿が見えた。しかし左門が振り返りざま、宙へ刀を揮うや、真っ先に進んでいた乾児の一人が、左右へ手を開き、持っていた刀を、氷柱《つらら》のように落とし、反《の》けざまに斃れた。
 蜘蛛の姿は消えていた。

 その蜘蛛が、しばらく経って姿をあらわしたのは、武蔵屋から数町離れた、瀬の速い川の岸であった。その岸を紙帳蜘蛛は、よろめきよろめき、喘ぎ喘ぎ、這っていた。でも、とうとう疲労《つか》れきったのであろう、四足を縮め、胴体に深い皺《しわ》を作り、ベタベタと地へ腹這った。円く高く盛り上がっていた背も撓《たわ》み、全体の相が角張り、蜘蛛というより、やはり、一張りの紙帳が、地面へ捨てられたような姿となった。川面を渡って、烈しく風が吹くからであったが、紙帳は、痙攣《けいれん》を起こしたかのように、顫《ふる》えつづけた。と、不意に紙帳は寝返りを打った。風が、その内部《なか》へ吹き込んだため、紙帳が一方へ傾き、ワングリと口を開けたのである。忽然、紙帳は、一間ほど舞い上がった。もうそれは蜘蛛ではなく、紙鳶《たこ》であった。巨大な、白地に斑点を持った紙鳶は、蒼々と月の光の漲《みなぎ》っている空を飛んで、三間ほどの彼方《むこう》へ落ちた。でも、また、すぐに、川風に煽られ、舞い上がり、藪や、小丘や、森や、林の点綴《つづ》られている、そうして、麦畑や野菜畑が打ち続いている平野の方へ、飛んで行った。





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