国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(23) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(23)

    怨恨上と下

 最初、紙帳の舞い上がった地面に、一人の女が仆れていた。お浦であった。水色の布《きぬ》を腰に纒っているばかりの彼女は、水から上がった人魚のようであった。
 彼女は疲労《つか》れ果てていた。左門によって気絶させられたところ、頼母に踏まれて正気づいた、そこで彼女は夢中で遁がれようとした。が、彼女を蔽うている紙帳が、彼女にまつわり、中から出ることが出来なかった。冷静に考えて、行動したならば、紙帳から脱出《のがれだ》すことなど、何んでもなかったのであろうが、次から次と――部屋の間違い、気絶、斬り合いの叫喚《さけび》、次から次と起こって来た事件のため、さすがの彼女も心を顛倒《てんとう》させていた。そのため、紙帳を冠ったまま、無二無三に逃げ廻ったのである。体をもがくにつれて、帯や衣裳は脱げて落ちた。
 藻屑《もくず》のように振り乱した髪を背に懸け、長い頸《うなじ》を延びるだけ延ばし、円い肩から、豊かな背の肉を、弓形にくねらせ、片頬を地面へくっ付けたまま、今にも呼吸が切れそうなほどにも、烈しく喘いでいるのであった。
(咽喉《のど》が乾く! 水が飲みたい!)
 彼女はこればかりを思っていた。
(川があるらしい、水の音がする)
 この時までも、小脇に抱いていた天国の刀箱を、依然小脇に抱いたままで、彼女は川縁の方へ這って行った。
 一方は宿の家並みで、雨戸をとざした暗い家々が、数町の彼方《あなた》に立ち並んでおり、反対側は髪川で、速い瀬が、月の光を砕いて、銀箔を敷いたように駛《はし》ってい、その対岸に、今を盛りの桜の老樹が、並木をなして立ち並んでい、烈しい風に、吹雪のように花を散らし、花は、川を渡り、お浦の肉体の上へまで降って来た。そうして、その桜並木の遙か彼方《むこう》の、斜面をなしている丘の上の、諏訪神社の辺りでは、火祭りの松明《たいまつ》の火が、数百も列をなし、蜒《うね》り、渦巻き、揉みに揉んでいるのが、火龍が荒れまわっているかのように見えた。
 お浦は、やっと川縁まで這い寄った。彼女は、崖の縁を越して、前の方へ腕を延ばした。すぐそこに川が流れているものと思ったかららしい。
(水が飲みたい、水を!)
 しかし川は、彼女のいる川縁から、一丈ばかり下の方を流れていた。そうして、川縁から川までの崖は、中窪みに窪んでい、その真下は岩組であった。
 その岩組の間に挾まり、腰から下を水に浸し、両手で岩に取り縋り、半死半生になっている男があった。渋江典膳であった。
 彼は、この髪川の上流、竹藪の側で、お浦のため短刀で刺された上、川の中へ落とされた。女の力で刺したのと、衣裳の上からだったのとで、傷は浅かった。しかし、川へ落ちた時、後脳を打ち、気絶した。でも、気絶したのは、典膳にとっては幸運だった。水を飲まなかった。その典膳は、ここまで流されて来、ここの岩組の間に挾まり、長い間浮いているうちに蘇生した。蘇生はしたが、衰弱しきっている彼は、川から這い上がることさえ出来なかった。助けを呼ぶにも、声さえ出なかった。彼はただ、岩に取り縋っているだけで精一杯であった。
 彼の心は、五郎蔵とお浦とに対する、怒りと怨みとで一杯であった。
(彼奴《きゃつ》ら二人に復讐するためばかりにも、生き抜いてやらなけりゃア)
 こう思っているのであった。
(昔の同志、同じ浪人組の仲間を、頭分たる彼奴が、女を使って殺そうとしたとは! 卑怯な奴、義理も人情も知らない奴! ……そっちがその気なら、こっちもこっち、彼奴の素姓を発《あば》き、その筋へ訴え出てやろう。即座に縛り首だ! 五郎蔵め、思い知るがいい! ……お浦もお浦だ、女の分際で、色仕掛けで俺を騙《たばか》り、殺そうとは! どうともして引っ捕らえ、嬲《なぶ》り殺しにしてやらなけりゃア!)
 川から上がりたい、水から出たいと、彼は縋っている手に力をこめ、岩を這い上がろうとした。しかし、腰から下を浸している水の、何んと粘っこく、黐《もち》かのように感じられることか! どうにも水切りすることが出来ないのであった。
 と、その時、頭上から、土塊《つちくれ》と一緒に、何物か崖を辷《すべ》って落ちて来、岩に当たり、幽《かす》かな音を立て、水へ落ちた。
 典膳は、水面を見た。細い長い木箱《はこ》が、月光で銀箔のように光っている水に浮いて、二、三度漂い廻ったが、やがて下流の方へ流れて行った。
 典膳は、崖の上を振り仰いだ。
 生々《なまなま》と白く、肥えて円い、女の腕が、長く延びて差し出されてい、指が、何かを求めるように、閉じたり開いたりしていた。
「あ」
 と、典膳は、思わず声を上げた。意外だったからである。しかし、次の瞬間には、誰か、女が、この身を助けよう、引き上げようとして、手を差し出してくれたのだと思った。
「お助けくださいまするか、忝《かたじ》けのうござる。生々世々《しょうじょうよよ》、ご恩に着まするぞ」
 と、典膳は、咽喉《のど》にこびり[#「こびり」に傍点]ついて容易に出ない声を絞って云い、一気に勇気を出し、川から岩の上へ這い上がった。





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