国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(24) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(24)

    栞の恋心

 腕の主はいうまでもなくお浦で、お浦は、この期《ご》になっても、恋しい男の頼母へ渡そうと、抱えていた天国の刀箱を、不覚にも川の中へ落としたので驚き、延ばしている腕を一層延ばし、思わず指を蠢《うごめ》かしたのであった。その時彼女は、崖下から、人声らしいものの、聞こえて来るのを聞いた。彼女は狂喜し、地を摺って進み、肩と胸とを、崖縁からはみ出させ、崩れた髪で、額縁のように包んだ顔を覗かせ、崖下を見下ろし、
「もし、どなたかおいででございますか。刀箱を落としましてございます。その辺にありはしますまいか? ……あ、水が飲みたい! 水を汲んでくださいまし」
 典膳は、この時、もう岩の上に坐りこんでいたが、女の声を聞いても、耳に入れようとはせず、ただ、女の腕に縋り、それを手頼《たよ》りに、崖の上へあがろうと、ひしと女の手を握った。
「お願いでございます。この手を、グッとお引きくださいまし。それを力に、私、崖を上がるでございましょう。ご女中、さ、グッとこの手を……」
 お浦は、突然手を握られて、ハッとしたが、咽喉の渇きがいよいよ烈しくなって来たので、握られた手を振り放そうとはせず、
「水を! まず、水を! ……その後にお力になりましょう。手をお引きいたすでございましょう。……おお、水を!」
 この二人を照らしているものは、練絹《ねりぎぬ》で包んだような、朧《おぼ》ろの月であった。
 典膳は、やっと、ヒョロヒョロと立ち上がった。お浦の体は、いよいよ崖の方へはみ出した。
 二人の顔はヒタと会った。
「…‥……」
「…………」
 鵜烏《うがらす》が、川面を斜《はす》に翔けながら、啼き声を零《こぼ》した。

 こういう事件があってから三日の日が経った。
 その三日目の朝、飯塚薪左衛門の娘の栞《しおり》は、屋敷を出て、郊外を彷徨《さまよ》った。さまよいながらも彼女の眼は、府中の方ばかりを眺めていた。連翹《れんぎょう》と李《すもも》の花で囲まれた農家や、その裾を丈低い桃の花木で飾った丘や、朝陽を受けて薄瑪瑙色《うすめのういろ》に輝いている野川や、鶯菜《うぐいすな》や大根の葉に緑濃く彩色《いろど》られている畑などの彼方《あなた》に、一里の距離《へだたり》を置いて、府中の宿が、その黒っぽい家並みを浮き出させていた。
(今日あたり頼母様にはお帰りあそばすかもしれない)
(いいえ、頼母様、是非お帰りあそばしてくださいまし)
 山水のように澄んでいる眼には、愛情の熱が燃え、柘榴《ざくろ》の蕾《つぼみ》のように、謹ましく紅い唇には、思慕の艶が光り、肌理《きめ》細かに、蒼いまでに白い皮膚には、憧憬《あこがれ》の光沢《つや》さえ付き、恋を知った処女《おとめ》栞の、おお何んとこの三日の間に、美しさを増し、なまめかしさを加えたことだろう! 彼女は過ぐる夜、屋敷の中庭で、頼母と会って以来、それまで、春をしらずに堅く閉ざしていた花の蕾が、一時に花弁《はなびら》を開き、色や馨《かお》りを悩ましいまでに発散《はな》すように、栞も、恋心を解放《はな》し、にわかに美しさを加えたのであった。
(妾《わたし》の良人《おっと》は頼母様の他にはない)
 処女の一本気が、恋となった時、行きつくところはここであった。まして栞のように、発狂している父親を看病し、老いたる僕《しもべ》や乳母《うば》や、荒々しい旅廻りの寄食浪人などばかりに囲繞《とりま》かれ、陰欝な屋敷に育って来た者は、型の変った箱入り娘というべきであり、箱入り娘は、最初にぶつかって来た異性に、全生涯を委《ま》かそうとするものであるにおいてをや。殊に相手が、若く、凜々しく、頼り甲斐のある、無双の美丈夫であるにおいてをや。
(頼母様、早くお帰りなされてくださりませ)
 その頼母は、自分たち飯塚家に、わけても父薪左衛門に仇《あだ》をする、松戸の五郎蔵という博徒の親分が、何故父親に仇をするのか、五郎蔵の本当の素姓は何か? それを、自分たちのために探り知るべく、出かけて行ってくれたのであった。
(頼母様、お会いしとうございます。早くお帰りなされてくださいまし)
 五郎蔵の素姓も、五郎蔵が、何故父親に仇をするのかをも、頼母の口から聞きたくはあったが、しかしそれよりも、狂わしいまでに恋している処女《おとめ》は、ただひたむきに、恋人の顔が見たいのであった。
 髪川から、灌漑用に引かれている堰《せき》の縁《へり》には、菫《すみれ》や、紫雲英《げんげ》や、碇草《いかりそう》やが、精巧な織り物を展《の》べたように咲いてい、水面には、水馬《みずすまし》が、小皺のような波紋を作って泳いでい、底の泥には、泥鰌《どじょう》の這った痕が、柔らかい紐のように付いていた。ことごとく春《はる》酣《たけなわ》の景色であった。
「おや」と呟いて、栞は、堰の縁へ、赤緒の草履の足を止めた。水面に、水藻をまとい、目高の群に囲まれながら、天国と箱書きのある刀箱が、浮いていたからである。




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