国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(26) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(26)

    名刀の威徳

「栞や」と、不意に、薪左衛門は、優しい穏《おだや》かな声で云った。
「これは、天国の剣に相違ないよ。私には見覚えがある。遠い昔に――二十年もの昔でもあろうか、五味左衛門という者の屋敷から、天国の剣を強奪……いやナニ、頂戴したことがあるが、それがこの剣なのだよ。……ゆえあってその天国の剣は、今まで行衛不明となり、同志、来栖勘兵衛からは……いやナニ、誰でもよい、同志の一人からは、わしがその剣を隠匿したように誣《し》いられたが……それにしても、栞や、よくそなた、この剣を目付け出してくれたのう」
 その云い方は、全然、正気の人間の云い方であり、その声音《こわね》は、これも正気の人間の、五音の調った、清々《すがすが》しい声音であった。
「まあお父様!」と、栞は叫ぶように云い、父親が、正気に返ったらしいのに狂喜し、のめるように膝で進み、薪左衛門の膝へ取り縋った。
「そのお顔は! そのお声は! ……おおおお、お父様、すっかり正気の人間に! ……」
 いかさま、ほんのさっきまでは、薪左衛門の顔は、狂人特有の、顰《ひそ》んだ眉、上擦った眼、食いしばった口、蒼白の顔色、そういう顔だったのに、何んと現在《いま》の顔は、のびのびとした眉の、沈着《おちつ》いた眼の、穏かに軽く結んだ口の、尋常の人の容貌に返っているではないか。これはどうしたことなのであろう? 奇蹟的事件にぶつかった時、人は往々、濁った気持ちや、狂った精神《こころ》を、本来の正気に戻すことがあるものであるが、薪左衛門にとっては、天国の剣の出現は、その奇蹟的事件といっていいらしく、そのため、烈しい感動を受け、日頃の狂疾が、一時的に恢復したのかもしれない。
「ナニ正気の人間に?」
 と、薪左衛門は、栞の言葉を、不審《いぶか》しそうに聞き咎めた。
「栞や、正気の人間とは?」
「おお、お父様お父様、あなた様は、長らくの間、ご乱心あそばしておいでなされたのでございます」
「乱心?」
「はい、過ぐる年、松戸の五郎蔵という、博徒の親分が参りまして、お父様と、お話しいたしましてございますが、その時、突然お父様には、『汝《おのれ》、来栖勘兵衛、まだこの俺を苦しめるのか!』と叫ばれまして、その時以来、ずっとご乱心……」
「…………」
「そればかりか、お父様には、以前からお持ちの、腰の刀傷が元で、躄者《いざり》に……」
「ナニ、躄者に?」と、叫んだかと思うと、薪左衛門は、腰を延ばし、ノッと立ち上がった。立てなかった。
「おおおお栞や、わしは躄者じゃ! ……躄者じゃ躄者じゃ、わしは躄者じゃ! ……ワ、わしは、イ、躄者じゃーッ」
 時が沈黙のまま経って行った。天井裏で烈しい音がし、悲しそうな鼠の啼き声が聞こえた。こういう古屋敷の天井裏などには、大きな蛇が住んでいるものである。それが梁《はり》から落ちて、鼠を呑んだらしい。
 時が経って行った。
 薪左衛門の顔には、恐怖、悲哀、絶望、苦悶の表情が、深刻に刻まれていた。当然といえよう。乱心していたということだけでさえ、恥ずかしいことだのに、躄者にさえなったという。生まれもつかぬ躄者に。
 薪左衛門は眼を閉じた。その瞼が痙攣を起こしているのは、感情を抑えているからであろう。栞の肩を抱いている手が、烈しく顫えているのも、感情を抑えているからであろう。
 父の苦悶の顔を、下から見上げている栞の顔にも、恐怖と不安と悲哀とがあった。
(烈しいお父様の苦悶が、お父様を駆って、また乱心に……)
 これが栞には恐ろしく悲しいのであった。
 やがて薪左衛門は弱々しく眼を開けた。その眼についたのは、右手に捧げている天国の剣であった。剣は、依然として、珠を延べたかのように、気高い、穏かな光を放し、宙に保たれていた。この剣の威徳には、煙りさえも近寄れないのであろうか? と云うのは、少しでもお父様の狂ったお心を静めてあげようと、優しい娘心から、栞は、毎日この部屋で香を焚くのであって、今も床の間に置いてある唐金の香炉から、蒼白い煙りが立ち昇ってい、その一片が、刀の切っ先をクルクルと捲いた。しかし何かに驚いたかのように、煙りの輪は、急に散り、消え、後には、暗い空間に、刀身ばかりが、孤独に厳《おごそ》かに輝いているではないか。
 それを見詰めている薪左衛門の眼は、次第に平和になり、顔からも、悲哀や苦悶や絶望の色が消えた。




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