国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(27) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(27)

    返らぬ記憶

「栞や」
 と、ややあってから、薪左衛門は、おちつき[#「おちつき」に傍点]のある、しみじみとした声で云った。
「わしが乱心中に、どんなことを云ったか、どんな事をしたか、話しておくれ」
 栞は、お父様が沈着な態度に返ったので、ホッと安心し、
「それはそれはお父様、ご乱心中には、何んと申したらよいやら、いろいろ変ったことをなさいました。また、おっしゃいもなさいました。……何から申し上げてよいやら。……おおそうそう、来栖勘兵衛という男が、お父様を討ちに来るなどと……」
「来栖勘兵衛がわしを討ちに? ……うむ、栞や、それは正気になった今のわしでも云うよ。……そういうことがあるような気がするよ」
「そうしてお父様には、ご自分を、有賀又兵衛じゃとおっしゃいました」
「…………」
「それからお父様は、来栖勘兵衛がわし[#「わし」に傍点]を討ちに来るから、旅の浪人などが訪ねて来たら、逗留させて、加担人《かとうど》にしろと。……それで妾《わたし》は、訪ねて参られた浪人衆を、お泊めいたしましてございます」
「そうかえ、それはいいことをしておくれだったねえ。……来栖勘兵衛は強い男なのだから、わしには、どうしても加担人《かとうど》が入用《い》るのだよ」
「それからお父様は、そのようにお御足《みあし》が不自由になられてからも、毎日のように、野中の道了様へ、お参詣《まいり》に行かねばならぬとおっしゃいますので、いっそ道了様を屋敷内に勧請《かんじょう》いたしたらと存じ、道了様そっくりの塚を、お庭へ築きましたところ……」
「おおおお、そんな苦労まで、栞や、お前にかけたのかねえ。……野中の道了※[#感嘆符疑問符、1-8-78] うむ、道了塚!」
 と、薪左衛門は、グッと眼を据えた。
「するとお父様には、それを真の道了様と思われ、毎晩のように、躄り車に乗られ、塚の周囲《まわり》をお廻りなさいましてございます」
「あさましいことだったのう」
「ところが、数日前の晩のことでございますが、加担人として、お泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せられるお方が、その塚のあたりを逍遙《さまよ》っておられますと、お父様が、来栖勘兵衛と勘違いされ、『勘兵衛、これ、汝《おのれ》に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での決闘、俺は今に怨恨《うらみ》に思っているぞ。……事実を誣《し》い、俺に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せたあげく、股へ一太刀! ……おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で決闘し、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ』とおっしゃったそうでございます」
「野中の道了での決闘? フーム……」
 と、薪左衛門は考え込んだ。
(野中の道了で、来栖勘兵衛と、俺は、決闘した覚えはある。……だが何んの理由で、決闘したのだろう?)
 彼には、肝心のことが解らなかった。
(わしの頭脳《あたま》は、まだ本当に快癒《なお》りきっていないのかもしれない)
 大病をして、大熱を発し、人事不省に落ち入ったものや、乱心して恢復した者のある者が、過去の記憶を、一切忘却してしまうことがある。一切忘却しないまでも、その幾個《いくつ》かを、忘れてしまうことがある。薪左衛門の場合はその後者らしかった。
(何んの理由で、俺は、勘兵衛と、野中の道了で決闘したのだろう?)
 思い出そう、思い出そうと、薪左衛門は焦心《あせ》った。
「栞や」と、薪左衛門は、傷《いた》ましい声で云った。
「わしを野中の道了へ連れて行っておくれ。……あそこへ行ったら、わしの記憶が蘇生《よみがえ》るかもしれないから」
 躄《いざ》り車に乗った薪左衛門と、それを引いた栞とが、野中の道了塚へ着いたのは、正午《まひる》であった。春陽に浸っている道了塚は、その岩にも、南無妙法蓮華経と刻《ほ》ってある碑《いしぶみ》にも、岩の間にこめてある土壌《つち》にも、花弁や花粉やらがちりばめられていた。この高さ二間周囲十間の道了塚は、いわば広々とした平野の中に出来ている瘤《こぶ》のようなものであった。しかし、この一見平凡の道了塚も、過去に多くの秘密を持っている薪左衛門にとっては、重大な記念物らしく、栞に助けられて、それを躄りのぼる彼の顔には、複雑な深刻な表情があった。やがて彼は碑を正面《まえ》にして坐った。彼の手には、鞘に納められた天国が、握られていた。
「栞や、わしはここで一人で考えごとをしていたいのだよ。一人にしておいてくれ」
 薪左衛門は、握っている白鞘の剣の周囲を、黄色い蝶が、謎めいた飛びかたをしているのを、無心で眺めながら、何んとなく放心したような声で云った。




[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送