国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(28) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(28)

    塚の中からの声

「はい」
 と栞は、素直に答えて、衣裳の赤い裾裏と、草履の赤緒との間に、白珊瑚《しろさんご》のように挾まっている可愛らしい素足を運ばせ、塚を下りた。そうして、塚の裾に、萠黄色《もえぎいろ》の座布団を敷いた躄り車が、もうその座布団の上へ、落花を受けて、玩具《おもちゃ》かのように置いてある横に立って、父親の方を振り返って見たが、やがて所在なさそうに、道了塚の背後に、壁のように立っている雑木林――かつて、五味左門が、紙帳を釣って野宿した、その雑木林の中へはいって行った。
 一人となった薪左衛門は、碑を見上げて、じっとしていた。裾に坐って、見上げているためでもあろう、六尺の碑が、二丈にも高く思われ、今にも、自分の上へ、落ちかかって来はしまいかと案ぜられた。陽に照らされて、その碑の面は、軟らかく艶めいてさえ見えたが、精悍に刎ねて刻《ほ》ってある七字の題目は、何かを怒《いか》って、叱咤しているかのように思われた。
 薪左衛門の記憶は徐々に返って来た。自分が有賀又兵衛と宣り、兄弟分の来栖勘兵衛と一緒に、浪人組の頭として、多勢の無頼の浪人を率い、関東一帯を荒らし廻った頃の、いろいろさまざまの出来事が、次から次と思い出されて来た。
(幾万両の財宝を強奪したことやら)
 奪った財宝の八割までを、自分と勘兵衛とが取り、後の二割を、配下の浪人どもへ分配してやった悪辣《あくらつ》の所業《しわざ》なども思い出された。そうして、大仕事をすると、官《おかみ》の探索の眼をくらますため、一時組を解散し、自分は今の屋敷へ帰って来、真面目な郷士、飯塚薪左衛門として、穏しく生活したことなども思い出されて来た。
(下総《しもうさ》の五味左衛門方を襲い、天国の剣と財宝とを奪い、さらに甲州の鴨屋を襲って、巨額の財宝を手に入れたのを最後として、全然《まったく》組を解散したっけ)
(その後、来栖勘兵衛は、故郷の松戸へ帰り、博徒の頭になった筈だ)
 こんなことも思い出された。
(だが、何んの理由で、俺と勘兵衛とは、この道了塚で決闘したのだろう?)
 決闘の現場の道了塚へ来て考えても、その理由ばかりは思い出されないのであった。
(わしの頭脳《あたま》はまだ快癒《なお》りきらないのかもしれない)
 淋しくこう思った。
 と、その時、何んたる怪異であろう! 坐っている道了塚の下から、大岩を貫き、銀の一本の線のような、恐怖と悲哀とを綯《な》い雑《ま》ぜにした男の声が、
「秘密は剖《あば》かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」
 と、聞こえて来たではないか。
「う、う、う!」
 と薪左衛門は、呻き声をあげたが、やにわに天国の剣を引き抜き、春の白昼《まひる》に現われた、「声の妖怪《もののけ》」を切り払うかのように、頭上に振り、
「あの声! 聞き覚えがある! ……二十年前に聞いた声だ! ここで、この道了塚で! ……秘密はあの声にあるのだ! 決闘の秘密は! ……おおおお、それにしても、二十年前に聞いたあの声が、二十年後の今日聞こえて来るとは?」
 一つの影が、碑を掠め、薪左衛門の肩へ斑《ふ》を置き、すぐ消えた。鳶が、地上にある鼠の死骸を目付け、それをくわえて、翔び上がったのであった。道了塚を巡って、酣《たけなわ》の春は、華麗な宴《うたげ》を展開《ひら》いていた。耕地には菜の花が、黄金の筵《むしろ》を敷き、灌漑用の水路には、水の銀箔が延べられてい、地平線を劃《かぎ》って点々と立っている村落からは、犬の吠え声と鶏の啼き声とが聞こえ、藁家の垣や庭には、木蓮や沈丁花《じんちょうげ》や海棠《かいどう》や李が咲いていたが、紗を張ったような霞の中では、ただ白く、ただ薄赤く、ただ薄黄色く見えるばかりであった。でも、それは、この季節らしい柔らかみを帯びた風景として、かえって美しく、万物を受胎に誘う春風の中に、もろもろの香気《におい》の籠っているのと共に、人の心を恍惚とさせた。それにも関わらず、薪左衛門ばかりは、ふたたび乱心に落ち入るかのように思われた。振り廻していた天国の剣を、今は額に押し当て、沈痛に肩を縮め、全身をガタガタ顫《ふる》わせた。
(声の秘密を解かなければならない! どうあろうと解かなければならない!)
 その声はまたも岩の下から、いや、岩の下の地の底から、一本の銀の線かのように、土壌《つち》を貫き、岩を貫いて聞こえて来た。
「秘密は剖かない! 裏切りはしない! 助けてくれーッ」
(あの声は、渋江典膳の声ではない! しかし典膳と一緒に働いていた男の声だ!)
 薪左衛門は呻いた。




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