国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(29) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(29)

    栞の発見した物

 この頃栞は、林の中を逍遙《さまよ》っていた。
 父親の乱心が癒ったことと、恋人の頼母が、今日あたり帰って来るだろうという期待とで、彼女の心は喜悦《よろこび》と希望《のぞみ》とに燃えているのであった。
(頼母様といえば、あのお方とはじめてお逢いしたのは、道了様の塚の裾辺りだったっけ)
 栞は、過ぐる日、気絶していた頼母を、この手で介抱して、蘇生させたことを思い出した。
(妾、あの方の命の恩人なのよ。……頼母様、妾を粗末にしてはいけないわ)
 つい心の中で甘えたりした。
 林の中は、光と影との織り物をなしていた。木々の隙を通って、射し込んでいる陽光《ひかり》は、地上へ、大小の、円や方形の、黄金色《こがねいろ》の光の斑を付け、そこへ萠え出ている、菫《すみれ》や土筆《つくし》や薺《なずな》の花を、細かい宝石のように輝かせ、その木洩《こも》れ陽《び》の通《かよ》い路《じ》の空間に、蟆子《ぶよ》や蜉蝣《かげろう》や蜂が飛んでいたが、それらの昆虫の翅や脚などをも輝かせて、いかにも楽しく躍動している「春の魂」のように見せた。
 心に喜悦を持っている栞は、何を見ても楽しかった。
 栗や柏や楢などが、その幹や枝に陽光を溜め、陽光の溜っている所だけが、生き生きと呼吸しているように見えるのも、蕾を沢山持った山吹が、卯木《うつぎ》と一緒に、小丘のように盛り上がってい、その裾に、栗色の兎が、長い耳を捻るように動かしながら、蹲居《うずくま》ってい、桜実《さくらんぼ》のような赤い眼で、栞の方を見ていたが、それも栞には嬉しくてならなかった。
 栞は木々を縫って目的《あて》なく彷徨《さまよ》って行った。
 一つの林が尽き、別の林へはいろうとする処に、木立ちのない小さい空地があり、そこまで来た時、
「あれ」と云って、栞は足を停めた。
 その空地に、巨大な白蝶の死骸かのように、一張の紙帳が、ベッタリと地に、張り付いていたからである。
「紙帳だよ、……まあ紙帳!」
 どうしてこんな林の中などに紙帳が落ちているのか、不思議でならなかったが、それと同時に、数日前、自分の屋敷へ泊まった五味左門と云う武士が、部屋へ紙帳を釣って寝、その中で、同宿の武士を殺傷したことを思い出した。
(その紙帳ではあるまいか?)
(まさか!)
 と思い返したものの、気味が悪かったので、栞は立ち去ろうとした。しかし、紙帳とか蚊帳《かや》とかを見れば釣りたくなり、布団を見れば敷いてみたくなるのが女心で、栞も、その心に捉《とら》えられ、立ち去るどころか、怖々《こわごわ》ではあったが、あべこべに紙帳へ近寄った。紙帳には、泥や藁屑が附いていた。そうして血痕らしいものが附いていた。
(気味が悪いわ)と栞は、またも逃げ腰になったが、でも、やっぱり逃げられなかった。
 短く切られてはいたが、紙帳には、四筋の釣り手がついていた。
 いつか栞は、その釣り手を、木立ちにむすびつけていた。
 間もなく紙帳は、栞の手によって、空地へ釣られ、ところどころ裂《さ》け目を持ったその紙帳は、一杯に春陽を受け、少し弛《だ》るそうに、裾を地に敷き、宙に浮いた。
(この中で寝たら、どんな気持ちするものかしら?)
 この好奇心も、女心の一つであろう。
 栞は、紙帳の中へはいろうとして、身をかがめ、その裾へ手をかけた。
 しかし栞よ、その紙帳こそは、やはり、五味左門の紙帳なのであり、三日前の夜、風に飛ばされて、ここまで来たものであり、そうして、その中へはいったものは、男なら殺され、女なら、生命《いのち》より大切の……そういう紙帳だのに、栞よ、お前は、その中へはいろうとするのか?
 そんなことを知る筈のない栞は、とうとう紙帳の中へはいった。
 処女の体を呑んだ紙帳は、ほんのちょっとの間、サワサワと揺れたが、すぐに何事もなかったように静まり、その上を、眼白や頬白が、枝移りしようとして翔《か》けり、その影を、刹那刹那《せつなせつな》映した。




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