国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(31) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(31)

    悩みの殺人鬼

 懐手《ふところで》をし、少し俯向《うつむ》き、ゆるゆると歩いて行く左門の姿は、たった今、人を殺した男などとは思われないほど、冷静であったが、思いなしか、淋しそうではあった。顔色もいくらか蒼味を帯びていた。林の中はひっそりとしていて、小鳥の啼き声ばかりが、頭上から、左右から聞こえて来た。山鳩が幾羽か、野の方から林の中へ翔《か》け込んで来たが、人間の姿を見て驚いたように、一斉に棹のように舞い立ち、木々の枝へ停まった。
 木々を巡り、藪を避《よ》け、左門は、道了塚の方へ歩いて行く。
 それにしても、どうして彼は、農家の隠居家などにいたのであろう? 何んでもなかった、三日前の夜、府中の武蔵屋で、ああいう騒動を惹《ひ》き起こしたが、切り抜けて遁がれた。遁がれたものの、伊東頼母を、返り討ちにすることが出来なかったことが残念であった。
(いずれは彼奴《きゃつ》も、この左門を討とうと、この界隈を探し廻っていることであろう、そこを狙って討ち取ってやろう)
 こう思い、あの農家に頼み込み、しばらく身を隠して貰っていたのであった。出かけて行って、頼母の居場所を探りたくはあったが、松戸の五郎蔵一味が、まだ府中にいて、この身の現われるのを待ち、討ち取ろうとしているらしかったので、今日までは外出しなかったのである。
 左門には、あの夜以来、心にかかることがあった。紙帳を失ったことである。何物にも換えがたい大切の紙帳を!
 そう、紙帳は、左門にとっては、ちょうど、蝸牛《かたつむり》における殻のようなものであった。肉体の半分のようなものであった。その中で住み、眠り、考え、罪悪さえも犯した紙帳なのだから! 恋人のような離れ難いものと云ってもよかった。それに紙帳は、彼にとっては、一つの大きな目的の対象でもあった。頼母を殺し、その血を注ぎ、憤死された父上の妄執を晴らしてあげたい! その血を注ぐ対象が紙帳なのであるから。
 その紙帳を紛失した彼であった。淋しそうに、気抜けしたように歩いて行くのは、当然といってよかろう。
(あの夜紙帳が、独《ひと》りで歩いたのは、中にお浦がいて、紙帳から出ようとしたが出られず、もがきながら走ったからだ。それは、あの女の着ていた物が、次々に脱げて、地へ落ちたことで知れる)
 しかし、その後、紙帳やお浦はどうなったことか?
 それが解らないからこそ、左門は憂欝なのであった。
 林を縫って流れている小川があり、水が清らかだったので、底の礫《こいし》さえ透けて見えた。それを左門が跨いで越した時、水に映った自分の姿を見た。顔に精彩がなかった。
(家を喪った犬は、みすぼらしいものの代表のように云われているが、俺にとっては紙帳は家だ。それを失ったのだからなア)
 顔に精彩のないのも無理がないと思った。
(どうぞして紙帳を探し出したいものだ)
 彼は黙々と歩いて行った。
 それにしても、何故彼は、道了塚の方へ行くのであろう? たいした理由があるのではなく、数日前ここの林へ紙帳を釣って野宿したことがあり、それが懐かしかったのと、五郎蔵の乾児二人を斬り、身をかくしたところが林で、その林が道了塚の方へつづいていたので、それで道了塚の方へ足を運ぶまでであった。
 彼は、どうして五郎蔵の乾児二人が、自分の隠れている農家などへやって来たのか、解らなかった。
(やはり五郎蔵一味め、俺の行衛を探しているのだな)
 こう思うより仕方なかった。彼には五郎蔵の乾児たちが、筵《むしろ》をかけた戸板を担って、あの農家の納屋《なや》の方へ行ったことを知らなかった。それは、その一団の姿が、母屋の蔭になっていて、見えなかったからである。
(どっちみち油断はならない)
 こう思った。
 やがて彼は、記憶に残っている、かつての夜、紙帳を釣って寝た、道了塚近くの林へ来た。
 突然彼は足を止め、茫然として前方を見据えた。無数の血痕を附けた、紛れもない自分の紙帳が、林の中の空地に釣られてあるではないか。紙帳は、主人に邂逅《めぐりあ》ったのを喜ぶかのように、落葉樹や常磐木《ときわぎ》に包まれながら、左門の方へ、長方形の、長い方の面を向け、微風に、その面へ小皺を作り、笑った。
 左門は、紙帳が、どうしてこんなところへ来ているのか、誰が紙帳を釣ったのか? と、一瞬間不思議に思ったが、それよりも、恋していると云ってもよいほどに、探し求めていた巣を――紙帳を、発見したことの喜びに、肌に汗がにじむほどであった。
 彼は、何をおいても、紙帳の中へはいり、この平和を失った、イライラしている心持ちを鎮めたいと思った。
 彼は、声をさえ発し、紙帳へ走り寄った。それが生物《いきもの》であったならば、彼は紙帳を抱き締めたであろう。彼はやにわに紙帳の裾をかかげた。
「あッ」
 彼は驚きで胸を反らせた。




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