国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(32) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(32)

    新鮮な果実《このみ》

 紙帳の中に、彼の眼前に、彼以外の紙帳の主がいるではないか。そう、紙帳を箱とすれば、箱へ納まった京人形のように、一人の美しい娘が、謹ましくはあったが、充分寛《くつろ》いだ姿で、安らかに、長々と寝て、眠っているではないか。
(無断で俺の巣へ入り込んだ女め!)
 憤怒《いかり》が勃然《ぼつぜん》と左門の胸へ燃え上がった。
(だが、女だ、綺麗な娘だ!)
 左門の、少し黒ずんで見えていた唇へ、赤味が注《さ》し、眼へ光が射した。
 左門は紙帳の中へはいった。彼は娘の顔をつくづくと見た。
(見覚えがある。飯塚薪左衛門の娘、栞だ!)
 事の意外に左門はまたも驚いた。
 過ぐる夜、飯塚家へ泊まった時、挨拶に出た栞という娘が、この紙帳の中に眠っていようとは!
(不思議だなア)
 左門は両眉の間へ皺を畳んだ。
(しかし、栞であろうと誰であろうと……)
 左門は、やがて地に腹這い、蛇が鎌首を持ち上げるように、首を上げ、頤の下へ両手を支《か》い、栞の姿をながめていた。栞は、そんなこととも知らず、片腕を枕にして、眠りつづけていた。友禅の襦袢の袖から、白い滑かな腕が覗いていたが、曲げた肘の附け根などは、円く軟らかく、薄桃色をなし、珠のようであった。
 この頃、五味左門が身を隠していた、例の農家の、街道に添った納屋には、陽がなんどり[#「なんどり」に傍点]と、長閑《のどか》にあたっていた。
 この辺の農家の誇りの一つとすることに、大きな納屋を持つということがあった。それは、鋤や鍬などの農具を、沢山に持っているということの証拠になるからであった。それでこの納屋も、土蔵ほどの大きさを持ってい、屋根に近い位置に、四角の窓を一つ穿《うが》っていた。その屋根に雀が停まっていて、羽づくろいし、その裾を、鼬《いたち》が、チョロチョロと徘徊していたが、これは赤黄色い土壌《つち》と、灰色の板とで作られているこの納屋を、大変詩的な存在にしていた。
 と、一人の武士が、刀の鞘を陽に照らし、自分の影を街道に落としながら、納屋の方へ歩いて来た。伊東頼母であった。頼母はあの夜、敵五味左門を取り逃がしたので、それを探し出し、敵《かな》わぬまでも勝負しようと、武蔵屋を出《い》で、府中をはじめ、近所のそちこちを、今日まで三日間さがし廻った。だが左門の行衛《ゆくえ》は知れなかった。そこで一旦、飯塚薪左衛門の屋敷へ帰ろうと、今この街道を歩いて来たのであった。飯塚家へ帰るということは、彼にとっては喜びであった。恋人の栞と逢うことであるから。過ぐる夜、あの屋敷の庭で、純情の処女、栞と、手を取り交わして以来、栞が、何んと烈しく、一本気に、頼母を愛し出したことか。その愛の烈しさに誘われて、頼母も、今は、燃えるように、栞を愛しているのであった。その栞と逢えるのだ! 頼母は幸福で胸が一杯であった。武蔵屋での苦闘と、三日間左門を探し廻った辛労とで、頼母は少し痩せて見えた。頤など細まり、張っていた肩など、心持ち落ちたように見えた。
「や、これは!」
 と、頼母は、納屋の前へさしかかり、何気なく窓を見上げた時、驚きの声をあげて足を止めた。窓にも陽があたっていて、明るかったが、納屋の内部は暗いと見え、窓の向こう側は闇であった。その闇を背後にして、明るい窓外に向き、一つの男の首級《なまくび》が、頼母の方へ顔を向けているではないか。陽のあたっている窓の枠を、黄金色《きんいろ》の額縁とすれば、窓の内部の闇は、黒一色に塗りつぶされた背景であり、そういう額の面に、男の首級《くび》一個《ひとつ》が、生白く描かれているといってよかった。首級《くび》は、乱れた髪を額へ懸け、眼を閉じ、無念そうに食いしばった口から幾筋も血を引いていた。
「首級だーッ」
 と、頼母は、思わず叫んだ。と、首級はユルユルと動き、一方へ廻り、すぐに頼母の方へ、ぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を見せたが、やがて窓枠からだんだんに遠退き、間もなく闇に融けて消えてしまった。しかし、すぐに続いて、今度は女の首級《なまくび》が一個、ユルユルと闇から浮き出して来、窓へ近寄り、頼母の方へ正面を向けた。やはり眼を閉じ、口を食いしばり、額へ乱れた髪をかけていた。しかし、その首級《くび》もユルユルと廻り、頼母へぼんのくぼを見せ、やがて闇の中へ消えた。頼母は全身を強《こわ》ばらせ、両手を握りしめた。と、またも、窓へ、以前の男の首級があらわれた。
「典膳の首級だーッ」
 と、頼母は夢中で喚いた。そう、その首級は見覚えのある渋江典膳の首級であった。
(しかし典膳は、三日前の晩に、お浦のために殺されて、川の中へ落とされたではないか! 何んということだ! 何んという! ……)
 典膳の首級は、頼母にそう叫ばれると、閉じていた眼を開けた。血が白眼の部分を櫨《はぜ》の実のように赤く染めていた。だが、その典膳の首級は、例のようにユルユルと廻って、闇に消え、それに代わって、以前の女の首級が現われた。
「お浦だーッ」
 そう、その首級はお浦の首級であった。




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