国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(35) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(35)

    二人を助けて

 と、間髪を入れず、三人目の乾児が、
「野郎!」と叫んで、足を薙ぎに飛び込んで来た。
「命知らずめ!」
 と頼母が叫んだ時には、もうその乾児の脳天を、鼻柱まで斬り下げ、その隙を狙って紋太郎が、脱兎のように戸口を目がけて逃げだしたのを、追おうともしないで見捨て、昏迷《あが》った四人目の乾児が、
「チ、畜生オーッ」
 と悲鳴のような声をあげて、滅茶滅茶に脇差しを振り廻し、ヒョロヒョロと接近《ちかよ》って来るやつを、真正面から、肩を胸まで斬り割り、望月角右衛門が、
「拙者、頼母めを背後より……各※[#二の字点、1-2-22]《おのおの》方は正面から……」
 と叫び、刀を振り冠り、背後へ廻ると見せかけ、その実は、お浦と典膳とが釣り下がっているその足の下を潜り、戸口から飛び出したのをも見捨て、生き残った二人の乾児が、これも戸口から駈け出そうとするのを、素早く前へ立って遮《さえぎ》り、
「逃げれば斬るぞ! 坐れ!」
 と大喝し、二人の乾児が、ベッタリと坐ったのを睨み、
「脇差しを捨てろ!」
 二人の乾児は脇差しを投げ出した。
 左門へ立ち向かっては子供のようにあしらわれる頼母ではあったが、本来が勝《すぐ》れた腕前、博徒や用心棒に対しては段違いに強く、瞬間《またたくま》に四人を斃し、二人を追い、二人を生擒《とりこ》にしてしまったのである。
 頼母はホッとし、大息を吐き、しばらくは茫然としていた。
(恩こそあれ、怨みのない五郎蔵殿の乾児衆を殺したとは……)
 武蔵屋で、左門と出会った時、五郎蔵たちに助けられなかったならば、自分は手もなく左門に討ち取られたことであろう! 五郎蔵殿とその乾児衆とは、自分にとっては恩人に相違ない! それを、時の機勢《はずみ》とはいえ、先方から仕掛けた刃傷沙汰とはいえ、その恩人の乾児を四人殺したとは……。
(殺生な!)その優しい心から、頼母は暗然とせざるを得なかった。
 と、その時、頭上から、
「頼母様アーッ」
 と叫ぶ、女の声が聞こえて来た。頼母はハッとし、気が附き、声の来た方を振り仰いだ。半分《なかば》死にはいり、ほとんど人心地のなかったお浦が、今の乱闘騒ぎで、正気を取り戻したらしく、藍のように蒼い顔を、薄暗い梁の下に浮き出させ、血走った眼で、思慕に堪えないように、じっと頼母を見下ろしていたが、紫ばんだ唇を動かしたかと思うと、
「頼母様アーッ……あなた様のために……あなた様に差し上げようと持ち出しました天国の御剣《みつるぎ》を、残念や、髪川へ落としましてございます。……こればかりが心残り! ……死にまする、妾《わたし》は間もなく死にまする! ……いいえ何んの怨みましょうぞ! 想いを懸けましたあなた様のために、五郎蔵親分に嬲《なぶ》り殺しにされて死ぬこそ、妾のような女には分相応! ……本望! ……喜んで死にまする! 頼母様アーッ」
 荒縄の一端で釣り下げられている彼女であった。肩も胸も露出《あらわ》に、乳房のあたり咽喉のあたり焼き鏝《ごて》でも当てられたか、赤く爛《ただ》れ、皮膚《かわ》さえ剥《む》けている。深紅の紐でも結びつけたように、血が脛《はぎ》を伝わっている。
「頼母殿と仰せられるか、一思いにお殺しくだされい! お慈悲でござるぞーッ」と叫んだのは、縄の他の端に繋がれた、お浦と並び、釣り下げられている典膳であった。
「おのれ五郎蔵、この怨み死んでも晴らすぞよ! ……汝の過去の罪悪、わけても道了塚での無慈悲の所業《しわざ》! それを俺に剖《あば》かれるかと虞《おそ》れ、瞞《だま》し討ちから嬲り殺しにかけおったな! ……可哀そうなは伊丹東十郎! あいつの悲鳴、今も道了塚へ行かば、地の下から聞こえるであろうぞ、『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』と。……天国の剣を、汝が手に入れたも、この典膳が才覚したればこそじゃ。……その俺を嬲り殺し! おのれ五郎蔵オーッ」
 ワングリと開けた暗い口から、焔《ほのお》の先のような舌を、ヒラヒラ出入りさせた。前歯が数本脱けている。引き抜かれたものらしい。爪を剥がされた足の指から、今も血がしたたってい、その指の周囲を、金蠅が飛び廻っている。
 頼母はやにわに刀を揮うと、二人を釣っている縄を切った。
「お浦殿オーッ」と頼母は、地に落ちて来たお浦を宙で抱き止めると、ベタリと坐り、お浦の体を膝へ掻き上げた。「頼母、お助けつかまつるぞオーッ」
 恩こそあれ怨みのないお浦であった。この身を恋してくれたこと、なるほど、五郎蔵からみれば、怒りに堪えない所業であったろうが、この身からすれば、尋常に恋されたまでである。憎むべき筋ではない。その恋ゆえに、天国の剣を持ち出してくれたという。感謝しなければならないではないか。その恋ゆえに、嬲り殺しにかけられたという。助けないでおられようか! 四辺を見れば、壁に戸板が立てかけられてあった。
「汝《おのれ》ら!」と頼母は、地べたに坐って顫《ふる》えている二人の乾児《こぶん》を睨みつけ、「戸板を持て! ……お浦殿とそのお武家様とを舁《か》き載せよ! ……そうして汝ら戸板を担《かつ》げ」
 一団は納屋を出た。
(角右衛門どもの注進で、五郎蔵が乾児を率い、襲って来るやも知れぬ。何を措いても身を隠さなければ! ……では附近《ちかく》の林へ!)
「走れ! 向こうの林へ駈け込め!」
 戸板の一団は、さっき、五味左門が身を没した同じ林の中へ駈け込んだ。




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