国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(38) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(38)

    愛すればこそ

「蛙が何んといって啼くかご存知?」
「さあ」
「久太という小博徒《こばくちうち》が、勝負に負けて、裸体にむかれて、野良路を帰って来ると、その前を、郷方見廻りの立派なお侍さんが二人、歩いて行かれましたそうで。……すると、田圃の中から、蛙が啼きかけましたそうで。……何んといって啼いたかご存知?」
「知るわけがござらぬ」
「『あんた方お歴々、あんた方お歴々』と啼いたそうでございます」
「そうも聞こえますなあ」
「久太が通ると、また、蛙は啼きかけたそうですが、何んといって啼いたかご存知?」
「知るわけはござらぬ」
「『裸体でオホホ』と啼いたそうでございます」
「なるほど、そうも聞きとれますなあ」
「久太は怒って、蛙を捕えて、地べたへ叩きつけましたそうで。……何んといって蛙が啼いて死んだかご存知?」
「知るわけはござらぬよ」
「『久太アー』と啼いて死んだそうでございます」
「あッはッはッ」と左門は、爆笑した。「『キューター』……あッはッはッ」
 爆笑してから、ハッと気がついた。
(俺は幾年ぶりで、気持ちよく、腹の底から、何んの蟠《わだかま》りもなく、笑っただろう?)
 そうして、彼の気持ちは、快く爆笑させてくれた栞に対して、感謝しなければならないようなものになっていた。
(妾、どうして今日は、こう何んでも、気安く思うことが云えるのだろう?)
 と、栞は栞で、自分ながらその事が、不思議なような気がした。(やはり、お父様のご病気がお癒りになったからだわ。……そうして、頼母様が、今日あたり、帰っておいでになるからだわ)
 ――それに相違なかった。それだから、心が喜悦に充ちてい、何んでも云え、何んでも受け入れることが出来、何んでもよい方へ解釈することが出来るのであった。
 また二人は、しばらく沈黙して、向かい合っていた。
 左門は、いつか、肘を枕にして横になった。
 蕾を持った春蘭が、顔の前に生えていて、葉の隙から栞の姿が、簾越《すだれご》しの女のように見えていた。栞は、顔を上向け、また、何か想いにふけっているようであった。華やかな半襟の合わさり目から、白い滑かな咽喉が覗き、その上に、ふくよかな円い顔が載っていて、咽喉の形が、象牙の撥《ばち》のように見えているのも、初々《ういうい》しかった。
 栞は笑った。頼母のことを思っての、「想い出し笑い」であった。
「栞殿」と、左門は、相手の心を探るように云った。
「そなた、誰かと恋し合っておられますな」
「ま、……どうして……」
 しかし栞の耳朶は紅を注した。
「様子でわかりまする」
「…………」
「あまりに浮き浮きとしておられる。あまりに幸福そうじゃ。……若い娘ごが、そのように成られること、恋以外にはござらぬ」
「…………」
「栞殿のような、美しい、賢い、無邪気な娘ごに恋される男、何者やら、果報者でござるよ」
「…………」
「相手の殿ごも、栞殿を愛しておられますかな?」




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