国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(39) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(39)

    讐敵紙帳の内外

「それはもう……」と、栞は思わず云って、また顔を染めた。
「その殿ご、心変りせねばよいが」
「なんの……決して……そのようなこと!」
「競争者でも出来て……」
「競争者でも……」
 と、栞の顔へ、はじめて不安の影が射した。
「さよう、競争者でも出来ましたら、男の心など、変るもので」
「いいえいいえ、そんなことがありますものか! ……でも、もしや、そんなことにでもなったら……死にまする! 妾は死にまする!」
「こう云っているうちにも、阿婆擦《あばず》れた女などが、そなたの恋人――いずれ、しおらしい、初心の栞殿の恋人ゆえ、同じ初心のしおらしい殿ごでござろうが、その殿ごへ、まとい付いて……」
 栞の顔色は次第に変り、眼が、地面の一所へ据えられた。
 その様子を見ると左門は、本来なれば、性来の悪魔性が――嗜虐《しぎゃく》性が、ムクムクと胸へ込み上げて来、この純情の処女《おとめ》の心を、嫉妬と猜疑《さいぎ》とで、穢してやろうという祈願《ねがい》に駆り立てられるのであったが、今は反対で、
(気の毒な! こんな純情の処女の心を苦しめてはいけない)と思った。そこで快活に笑い、
「いやいや栞殿、心配はご無用になされ、純情の殿ごなりや、どのような性悪る女であろうと、誘惑の手延ばされぬものでござる。……それにしても、栞殿のような娘ごに、そのようにまで想われる男、果報者の代表、うらやましい次第、何んという名のお方でござるかな?」
「はい、そのお方の名は……」
 栞が云いかけた時、紙帳の外から、
「やア、ここに紙帳が釣ってあるわ! ……やア、左門めの紙帳じゃ!」
 という声が聞こえた。
 頼母の声であった。
「左門!」と、その声は叫んだ。「我は伊東頼母、先夜は府中武蔵屋で、むざむざ取り逃がしたが、再度ここで巡り合ったは天の祐《たす》け! 父親の敵、今度こそは遁《の》がしはせぬ! 出て来て勝負を致せ!」
「頼母様アーッ」
 と、その声を聞いて、まず呼ばわったのは、栞であった。
「頼母様アーッ、妾、栞でござりまする! ……今日あたりお帰りくださりましょうかと、心待ちに待っておりましたところ! おお、やっぱりお帰りくだされましたか! ……それにいたしても変った所で! 頼母様アーッ」
 と、栞は、叫び叫び、紙帳の裾をかかげ、外へ出ようとした。しかし、その栞は、背後から、左門の手によって引き戻された。
「伊東頼母氏か。……紙帳の中におる者は、いかにも五味左門、貴殿父上の敵じゃ! ……が、頼母殿、紙帳の中には、もう一人人《ひと》がいる! 飯塚薪左衛門殿の娘栞殿じゃ! ……いや、驚き申したわ。栞殿に恋人のあること、たった今、この帳中で、栞殿より承ってござるが、その恋人が、貴殿、頼母殿であろうとは!」
 左門は、そう云い云い、刀の柄を右手で掴んだが、一振りすると鞘を飛ばせ、蒼光る刀身を、頼母のいると覚しい方へ差し付けた。
「悪縁といえば、よくよくの悪縁でござるよの」と左門は、辛辣な声で云いつづけた。
「貴殿のお父上を討ち取ったばかりか、武蔵屋では、貴殿の恋人、博徒五郎蔵の女お浦という者を、拙者この帳中で。……しかるに、同じこの紙帳の中で、貴殿第二の恋人、栞殿を。……重なる怨みとはこの事! フッフッ、これでは貴殿、拙者を見遁がすことなりますまいよ!」




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