国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(40) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(40)

    悲痛の頼母

「頼母様アーッ」
 と栞は、左門の手から遁がれよう遁がれようと身悶えしながら、必死となって叫んだ。
「左門様が、あなた様のお父様の敵などとは夢にも知らず、先刻《さきほど》から、紙帳の中で、物語りいたしましたは真実ではござりまするが、何んの貞操《みさお》を!」
「それは真実じゃ!」
 と、左門は、意外に真面目の声で云った。
「栞殿は、純潔じゃ。……それから……」と云ったが、云い止めた。
 しかし、やがて決心したように、誠実のこもった声で、
「先夜、武蔵屋で、お浦と申す女子を手に入れたよう申したが、これも嘘じゃ! ……拙者に関する限り、お浦という女は純潔じゃ! ……本来、拙者は女嫌いでな。いわば女性嫌忌性なのじゃ!」
(それにしても)
 と、左門は、自分で自分を疑った。
(どうして、こう、俺は素直な気持ちになったのであろう。……先夜は、頼母めを苦しめようために、手を触れさえしなかったお浦という女を、手に入れたなどと偽《いつ》わり云ったのに。……いまに至ってそれを取り消すとは)
 ――左門には、その理由がわからなかったが、しかし、その理由は、栞というような、本当に無邪気な、純な処女と、罪のない、子供同士のような話をし、腹の底から笑ったことが影響し、彼の心が、人間本来の「善」に帰ったからであるかもしれない。
「動くか、頼母!」
 しかし、突然、左門は一喝し、グルリと体を廻し、紙帳の、側面の方へ向き、刀を差し付けた。
「紙帳の内と外、見えぬと思うと間違うぞよ。……紙帳の中にいる左門こそ、不動智の位置にいる者じゃ。左へも右へも、前へも後へも、十方八方へ心動きながら、一所へは、瞬時も止まり居坐らぬ心の持ち主じゃ。眼光《め》は、紙背に徹するぞよ! ……嘘と思わば証拠を挙げようぞ。……汝、今、紙帳より一間の距離《へだたり》を持ち、正面より側面へ移ったであろうがな。……現在《いま》は同じく一間の距離を持ち、紙帳の側面、中央《なかば》の位置に立ち、刀を中段に構え、狙いすましておろうがな。……動くか!」
 と、またも大喝し、左門は、グッと左へ体を向け、紙帳の背面へ刀を差し付けた。
 紙帳は、二人を蔽うて、天蓋のように、深く、静かに、柔らかく垂れていた。縦縞のように、時々襞が出来るのは、風が吹きあたるからであろう。
 ここは紙帳の外である。――
 頼母は、刀を中段に構え、紙帳から一間の距離を保ち、紙帳を睨《にら》んで突っ立っていた。全身汗を掻き、顔色蒼褪め、眼は血走っていた。お浦と典膳とを戸板に載せ、五郎蔵の乾児二人に担がせ、ここまで走って来た頼母であった。見れば、林の空地に、見覚えのある、五味左門の紙帳が釣ってあった。驚き喜び、宣りかけたところ、意外も意外、恋人栞が、その中にいて、声を掛けたとは! ……それが、殺人鬼のような左門の手中にあって、身うごきが出来ずにいるとは!
 これだけでも頼母は、逆上せざるを得なかった。その上、剣技にかけては、段違いに優れた左門によって、紙帳の中から、嘲弄されたのである。頼母は文字通り逆上した。
(父の敵の左門、討たいで置こうか! 恋人の栞、助けないで置かれようか!)
 思うばかりで、体はほとんど自由を欠いていた。眼前の紙帳が、鉄壁のように彼には思われた。鉄壁を貫いて、今にも、左門の剣が、閃めき出るように思われた。腕が強《こわ》ばり、呼吸がはずみ、足の筋が釣った。それでも、彼は、隙を狙うべく、紙帳を巡った。帳中の左門によって、見抜かれてしまった。
 手も足も出ないではないか。
 常磐木と花木と落葉樹との林が立っている。鳥が翔《か》け過ぎ、兎が根もとを走り、野鼠が切り株の頂きに蹲居《うずくま》り、木洩れ陽が地面に虎斑を作っている。
 そういう世界を背後に負い、血痕斑々たる紙帳を前にして、頼母は、石像のように立っていた。差し付けた刀の切っ先を巡って、産まれたばかりらしい蛾が、飛んでいる。
 と、その時、
「頼母様アーッ」
 と呼ぶ、凄愴の声が聞こえて来た。
 頼母のいる位置から、十数間離れた、胡頽子《ぐみ》と野茨との叢《くさむら》の横に、戸板が置いてあり、そこから、お浦が、獣のように這いながら、頼母の方へ、近づきつつあった。頼母様アーッと呼んだのは、お浦であった。彼女の眼に見えているものは、紙帳であり、彼女の耳に聞こえたものは、頼母と左門との声であった。武蔵屋の紙帳の中で、二度まで気絶させられた怨みある左門が紙帳の中にいる! その左門は、自分にとっては、救世主とも思われる頼母様の親の敵だという! おのれヤレ左門、怨みを晴らさで置こうか! 懐かしい頼母様! お助けしないでおられようか! ……一人には怨みを晴らし、一人には誠心《まごころ》を捧げてと、息絶え絶えながら、彼女は、紙帳の方へ這って行くのであった。




[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送