国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(43) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(43)

    純情の二人の女

 左門は、右手に、抜いた関ノ孫六の刀を握り、それを、お浦へ差し付け、左手では、紙帳の裾をかかげ遁がれ出ようとする栞の帯を掴んでいた。
「お浦、事情を聞けばまことに気の毒、さぞ左門が憎いであろうぞ! が、今は甲斐ない繰り言! 過ぎ去った事じゃ! ……」
 と云ったが、抜き身を地へ置くと、その手を頤の下へ支《か》い、眉根へ寄せたがために、藪睨みのようになって見える瞳《め》で、つくづくとお浦の顔を見詰め、
「以前《これまで》の拙者なりゃ、その方より紙帳へ近附いたからには憂き目を見たは自業自得と、突っ放すなれど、現在《いま》の拙者の心境《こころ》ではそれは出来ぬ。気の毒に思うぞ! 詫び申すぞ! ……さりながら一切は過ぎ去ったこと、繰り返しても甲斐はない! ……今後は贖罪《とくざい》あるばかりじゃ! ……お浦、そちのその重傷《おもで》では、生命取り止むること覚束《おぼつか》ないかもしれぬ。そこで云う、今生《こんじょう》唯一の希望《のぞみ》を申せ! ……左門、身に代えて叶えてとらせる!」
「希望※[#感嘆符疑問符、1-8-78] ……唯一の、今生の希望※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 と、お浦は、すでに天眼になりはじめた瞳、小鼻がにわかに落ちて、細く険しくなった鼻、刳《えぐ》られたように痩せ落ちた顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》や頬、そういう輪廓を、黒い焔のような乱髪で縁取《ふちど》り、さながら、般若《はんにゃ》の能面《おもて》を、黒ビロードで額縁したような顔を、ヒタと左門へ差し向けたが、
「おおそれなら、頼母様のお命を! オ、お助けくださりませ! ……五郎蔵の乾児大勢に、ああ取り囲まれましては、所詮助からぬあのお方のお命! ……お助けくださらば海山のご恩! ……あなた様への怨みも消えまする! ……左門様アーッ」
「左門様アーッ」
 と、するとこの時、もがいて、ようやく、左門の手から遁がれた栞が叫んだ。
「妾からもお願いいたしまする! ……頼母様のお命お助けくださりませ! ……、聞けば頼母様、五郎蔵一味大勢の者に取り囲まれ、ご危難とか! ……おおおお、あの物音が、頼母様討とうの物音とか! ……掛け代えのない大切の頼母様、オ、お助けくださりませーッ」
 乱れた衣裳、髻《もとどり》千切れた髪、蒼白な顔、嵐に揉まれる牡丹桜とでも云おうか、友禅の小袖の袖口からは、緋の襲着《したぎ》がこぼれ、半分《なかば》解けた帯の間からは、身悶えするごとに、鴇色《ときいろ》の帯揚げがはみ出し、髪へ掛けた鹿の子の布が、蝋細工のような耳朶のあたりで揺れている態《さま》など、傷ましく哀れではあったが、尚美しさ艶かしさを失わない女の姿であった。
「ナニ、掛け代えのない大切の頼母様?」
 と、お浦は、はじめて栞へ眼をつけたが、
「汝《わりゃ》ア何者? ……見ればまだ小娘! ……それなのに、妾の、頼母様のことを! ……」
 気も遠々に、次第に地面へ伏し沈もうとする体を、またも猛然と揺り起こし、しかし、立ち上がる気力はなく両手を地に突き、栞の方へお浦は這い寄るのであった。
「さては汝《おのれ》は、頼母様に、横恋慕をしてこのお浦から……」
 栞も今は一生懸命、胸を反らせ、膝を揃え、膝の上へ両手を重ね、毅然とした態度となったが、
「横恋慕などとは穢らわしい、そなたこそ誰じゃ? そなたこそ横恋慕! ……妾はこの土地の郷士飯塚薪左衛門の娘栞! ……頼母様とは将来《ゆくすえ》を誓約《ちか》った仲! ……邪《よこし》まの恋などではござりませぬ! ……それを横恋慕などと! ……」
「吠《ほざ》くな小娘!」
 と、お浦は、南国に住むという傘蛇《からかさへび》が、敵に襲いかかるように、ユラユラと背延びをし、両手を高く上げたが、
「命取られるまでに折檻《せっかん》され、嬲《なぶ》り殺しにかけられたお浦、それも頼母様のため! これが邪まの恋か! ……おおおお、これが邪まの恋か! ……恋? なんの! 恋なものか! おおおお、恋などという生やさしいものは、妾にとっては、遠い昔の物語! ……真実《まっとう》の人間に復活《かえ》ろうと、久しい間、男嫌いで通して来たものを! ……恋? それも邪まの恋? ……何んの何んの頼母様は、わたしにとっては恋以上のお方! ……救世主《すくいぬし》! ……おおおお、でも、この妾の心! ああやっぱり恋かしら? ……恋なら恋でままよ! その恋ひたむきにとげるまでよ! ……吠《ほざ》いたな小娘! 頼母様とは将来を誓約《ちか》った仲と! ……まことなりや、その仲裂かいで置こうか! ……汝《おのれ》を殺してエーッ」
 と、バッと蔽いかかろうとした。




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