国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(45) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(45)

    左門の任侠

 今は中からは人声は聞こえず、周囲《まわり》の、叫喚《さけびごえ》、怒号《どなりごえ》、剣戟《けんげき》の響きを嘲笑うかのように、この、多量に人間の血を浴びた長方形の物像《もののかたち》は、木立ちと木立ちとの間に手を拡げ、弛んだ裾で足を隠し、静かに立っている。吸っても吸っても血に飽かないこの怪物は、これまでも随分血を吸ったが、今日こそはそれにも増して、充分に吸うぞというかのように、静かな中にも胴顫いをさせている。そう、微風につれて、ゆるやかな弛みを作ったり、幽かな襞《ひだ》を作ったりしているのであった。裾の一所に、背を光らせた蜥蜴《とかげ》がいて、這い上がろうとし、短い足で紙帳を掻いているのも、魔物めいていて不気味であった。
 と、その紙帳目掛け、松五郎なのであろう、一人の乾児が、抜き身を引っさげたまま、仲間の群から駈け抜け、走り寄るのが見えた。が、その体が紙帳へ寄り添ったと見えた瞬間、悲鳴が起こり、丸太のようなものが一間ばかり飛び、足を股から斬り取られた松五郎が、鼠煙火《はなび》のように地上をぶん廻り、切り口から、龍吐水《りゅうどすい》から迸《ほとばし》る水のように、血が迸り、紙帳へかかるのが見えた。
 すぐに紙帳の裾がパックリと口を開け、そこから身を斜めにし、刀を袖の下にした、痩せた長身の左門が、ソロリと潜《くぐ》り出て来た。
「出たーッ」
 と、五郎蔵は、自分が襲われたかのように叫んだ。
 左門は紙帳を背後にし、頬の削《こ》けた蒼白い顔を、漲る春の真昼陽に晒らして立ち、少しまぶしそうに眼をしばたたいた。
「出た! 本当に出た! 左門が!」
 立ち木に背をもたせ、五郎蔵とその乾児たちとを睨んでいた頼母も、紙帳を出た左門を認め、声に出して叫んだ。悪寒が身内を氷のように走った。
(絶体絶命! ……俺はここで討たれるのか!)
 大勢の五郎蔵の乾児たちを相手に斬り合うだけでさえ、今は手に余っていた。そこへ、いよいよ、自分より段違いに腕の勝れた左門が現われ出たのであった。勝ち目はなかった。
(残念! 返り討ちに逢うのか! ……栞殿を眼の前に置きながら、返り討ちに!)
 眩《くら》みかかった彼の眼の、その眼界を素走って、五郎蔵の乾児数人が、左門へ襲いかかって行くのが見えた。と、その乾児たちを無視したように、左門の豹のような眼が、頼母の方へ注がれたが、
「頼母氏!」
 という声が聞こえて来た。
「紙帳の中の二人の女子――栞殿とお浦との純情に酬いるため、二人の希望《のぞみ》を入れ、拙者、貴殿へ助太刀つかまつるぞ。……ただし、拙者と貴殿とは讐敵《かたき》同士、恩に着るに及ばぬ、恩にも着せ申さぬ! ……五郎蔵!」
 と左門の眼が五郎蔵の方へ向いた。
「武蔵屋では、よくも拙者に手向かいいたしたな! 今日は返礼! 充分に斬るぞ!」
「黙れ、犬侍!」
 五郎蔵は躍り上がり躍り上がり、
「想いを懸けた俺の女を! ……それを汝《おのれ》、よくもよくも! ……汝こそ犬じゃ! ……やア野郎ども犬侍を叩っ殺せ!」
 声に応じ、竹槍を持った乾児が、左門眼がけて走り寄ったのが見えた。と、左門の姿が無造作に一方に開き、竹槍の柄を掴んだ。と思う間もなく、槍を掴まれた乾児が、よろめいて前へ出たところを、脇下から肩まで払い上げた。
「野郎ども一度にかかれ!」
 怒号する五郎蔵の声に駆り立てられ、三人の乾児が左右から斬ってかかった。
「頼母氏見られよ!」
 と、左門の声が響いた。と同時に、一人の乾児の斬り込んで来た脇差しを迎え、それより速く、その脇差しの上へ、自分の刀を重ねるように斬り付け、乾児の眉間を頤まで割り、
「これぞ我が流における『陽重の剣』でござるぞ! ……先ほども紙帳の中より申しましたとおり、貴殿の剣法いまだ未熟、なかなかもって拙者を討つことなりますまい。……されば拙者の剣法を仔細に見究め、拙者を討つ時の参考となされい!」
 と呼ばわり、もう一人の乾児が、味方が討たれたのに怯え、立ち縮《すく》んでいる所へ、真一文字に寄り、肩を胸まで斬り下げ、
「頼母氏、今の斬こそは、我が流における『青眼破り』でござるぞ! 相手、青眼に付けて、動かざる時、我より進んで相手の構えの中へ入り、斬るをもってこの名ござる!」
 と大音に呼ばわった。




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