国枝史郎「高島異誌」(03) (たかしまいし)

国枝史郎「高島異誌」(03)

  蟇の池の怪

 斯ういうことのあったのは、元禄十五年六月のことで、諏訪因幡守三万石の城下、高島に於ける出来事である。
 偖《さて》、斯うして巨財を贈わった。本条純八は、是迄の貧しい生活を捨てて、栄誉栄華に日を送る事を、何より先に心掛けた。
 この物語の原本たる「異譚深山桜」には、其時の事を次のように、美しい文章で書いてある。
「(前略)……彼の歓喜限り無く宛《さなが》ら蚊竜時に会うて天に向かつて舞《のぼ》るが如く多年羨み望みたる所の家財調度を買求め、家の隣の空地を贖ひ、多くの工匠を召し集めて、数奇を凝らせる館を築けば、即ち屏障光を争ひ、奇樹怪石後園に類高く、好望佳類類うもの無し。婢僕多く家に充ち、衆人を従へて遊燕すれば、昔日彼の貧を嫌つて、接近を忌みたる一門親族[#底本では「族」が脱字]も後に来つて媚を呈す。云々……(下略)」
 要するに、彼は一朝にして、王侯の生活に達したのであった。で成金の常として幾人もの妾を蓄えたが、笹千代という二十歳の美婦を専《もっぱ》ら彼は寵愛した。
 斯うして彼の好運は、先拡りに益々拡り、容易に崩れそうにも見えなかった。併し老医師千斎ばかりは、あの時以来足踏みをせず、純八の噂の出る毎に、
「いやいや誠の栄華ではござらぬ。魑魅魍魎の妖術でござるよ」
 斯う苦々しそうに云い放し、彼の運命を気遣うのであった。幼馴染の筒井松太郎は、以前《むかし》に変らぬ友情を以って絶えず彼の許を訪れたが、是も時々小首を傾げ、
「ハテ、此素晴らしい好運は、一体何時まで続くのであろう?」と、不安そうに呟く事があった。
 斯うして一年は経過ったが、其時大きな喜が復も純八に訪れて来た。それは笹千代が男の子を儲けたことで、早速吉丸と名を付けて、宝の様に慈愛《いつくし》んだ。美しい女、不足無い衣食、そうして子さえ出来たので[#「ので」は底本では「の族で」と誤植]、心ゆくまでの大栄華に、彼は浸る[#底本では「侵る」]ことが出来たのである。
 彼の館の庭園に古い広い池があった。以前空地であった頃から其池は其処に在ったので、其頃から其池は人達によって、「蟇の池」と呼ばれていた。夫れは巨大な無数の蟇が其処を住家にして住んでいるからで、そう云えば本当に初夏の候になると、水草の蔭や浮藻の間に、疣々のある土色の蟇や、蒼白い腹を陽にさらして、数え切れない程の沢山の蟇が住んでいるのが、彼にも見えた。
「蟇というものは一見すると無気味じゃが、よく見ると仲々雅致がある。決して池の蟇は殺してはならぬ」
 純八は家人へ斯う云い渡して、却って蟇の保護をした。
 然るに此処に困った事には、その池の蟇を捕えようとしてか何処からとも無く無数の蛇が、庭園の中へ集まって来て、女子供を驚かせたり、縁や柱へ巻き付くので、尠《すくな》からず純八は当惑し、見付ける端から殺させたけれど、蛇は益々増るばかりであった。
 と云って蟇を殺すことは、純八は何うしても許さない。
 斯うして三年目の夏が来た。
 其時事件が起ったのである。
 それは夕立の晴れた後の、すがすがしい午後のことであったが、三歳になった吉丸は母の笹千代に連れられて、池の畔《みぎわ》を歩いていた。すると草叢から一匹の蛇が、紐のようにスルスルと走り出たが、ハッと思う暇も無く吉丸の足へ巻き付いた。
「あっ」
 と驚いた笹千代は、自分も長虫を嫌う所から、消魂く人を呼び乍ら、一間余りも飛び退ったが、どぶん[#「どぶん」に傍点]という水音に驚いて、ギョッとばかりに振り返って見ると、吉丸の姿が見当らぬ。
 池の岸まで走り返えり、じっと水面を隙かして見れば、どこよりも蒼い水の面に、一に小さい波紋があって、次第々々に大きくなり、やがて幽に消え失せたが、正しく波紋の真中には、いたいけ[#「いたいけ」に傍点]な吉丸の死骸が沈んでいるに相違ない。
 彼女の声に驚いて、純八を初め家婢下男共は、周章てて其場へ駈けつけて来たが、早速には何うする事も出来なかった。
 これぞ最初の不幸なのである。




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