国枝史郎「高島異誌」(04) (たかしまいし)

国枝史郎「高島異誌」(04)

  妖僧再び出現

 併し最初の此不幸は、意外な物の救助《たすけ》に依って、不思議にも恢復《とりかえ》す事が出来た。
 それは、其夜の事であるが、嘆き疲れた純八が、思わず睡眠《まどろ》んだ其際に、一つの夢を見たのである。
 夢の主人は蟇であった。蟇は大きさ人間ほどもあったが、前脚二本で溺れ死んだ筈の吉丸を、さも大事そうに抱いていたが、幾度も幾度も辞儀をして、偖夫れから斯う云った。
「私事は〈蟇の池〉に住む多くの蟇の主でございますが、貴郎様には此年頃、大方ならぬ保護を受け、有難く存じて居りました所、今日計らずも若様が、水に溺れようとなされましたので、ご恩報じは此時と思い、お助け申しましてござります。いざお受け取り下さいますよう……尚又もしお館様に此後ご災難などござりました際には、私の力の及ぶ限りは、必ずお力になりましょう程に、お心安く覚し召せ」
 云って了うと蟇の姿は、幻のように消えて失せ、スヤスヤと眠っている吉丸ばかりが、布団の上に置いてあった。
 二度目の災難の起こったのは、それから十日程経った時で、厨《くりや》の方から火が起こり、館を灰燼に為ようとした。其時不思議や池の水、忽ち条々と噴き上がり、焔に向かって降りかかったので、さしもの劫火[#「劫火」は底本では「却火」と誤記]も瞬間に其勢力を失って、無事に館は助かった。斯うして不安の夏も逝き、秋の初めになった時、遂々恐ろしい没落が純八の身の上に落ちて来た。
 それは後園の藤袴が空色の花を枝頭に着け、築山の裾を女郎花が、露に濡れながら飾るという如何にも秋めいた日のことであったが、純八は一人池の周囲をのんびり[#「のんびり」に傍点]した気持で歩いていた。
 と、裏門がギーと開いて、三年前に初めて逢い、彼に福徳を授けて呉れた白髪皓膚《こうふ》[#底本では「《こうひ》」]の托鉢僧が、そこから忽然と這入って来た。
「お、これはご老僧。ようこそお出で下されました」
 と、死んだ親にでも逢ったように、大袈裟に純八は喜び乍ら、手を拡げて其方へ走り寄った。
 併し老僧は挨拶もせず、只凝然と立っている。昔の俤と変りが無いが頸の辺に太刀傷が一筋細く付いているのが、些昔と異っている。
「どうじゃな?」
 と僧はやがて云った。
「今の境遇は楽しいかな」
「はい」と純八は慇懃に、
「此上も無く結構でござります」
「成程」
 と僧は笑い乍ら「何時迄も今の境遇に坐っていたいと思うかな?」
「何時迄も居り度うござります」
「成程」
 と僧は復笑って「併し私にはそうは見えぬ、お前は何うやら厭飽《あき》たらしい」
「いえいえ、そんな事はございません」
「では何故善根を積まぬのじゃ?」
「え、善根と仰有いますと?」
「殺生などをしない事じゃ」
「決して殺生などは致しませぬ」
「お前は蛇を殺すじゃないか」
「あれは悪虫でございます故……」
「ふん」と僧は嘲笑った。「それが大変な間違いじゃ。蛇は決して悪虫では無い。……ましてお前の身の上に執っては大変為になる虫なのじゃ!」
 僧は暫く考えていたが、
「お前の好運は尽きたのじゃぞ!」
 と不意に鋭く叱※[#「口+它」(咤の俗字)、よみは「た」、第3水準1-14-88、127-上9]した。
「栄枯盛衰の移り変りの如何に劇《はげ》しく恐ろしいかという事を、汝其処に居て見るがよいわ!」
 僧がポンポンと手を拍った。
 と其刹那高楼の四方から焔々たる大火燃え上ったが、忽ち館は烏有に帰した。
「異譚深山桜」には、其時の事を次のように、哀れ深く書いてある。
「(前略)妖火静まつて後を見れば、寂寥《せきりよう》として一物無く、家屋広園悉く潰え、白骨塁々雑草離々人語鳥声聞ゆるもの無し。而て白骨は彼の家人、即ち妾婢幼児なりき。
 彼唖然として心茫々、回顧すれば老僧の姿、又※[#「倏の俗字(犬が火)」、第4水準2-1-57、127-下1]忽《しゅっこつ》[#底本では「《しょこつ》」]として消亡す。(下略)」
 つまり恋しい笹千代も恩愛限り無い吉丸さえ、彼は失って了ったのであった。如何に彼が驚いたか、どんなに彼が悲しんだか、敢てそんな事は筆を改めて説明するにも及ぶまい。――斯うして彼は一切の栄華、総ての物を失ったのであった。




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