国枝史郎「高島異誌」(06) (たかしまいし)

国枝史郎「高島異誌」(06)

  歯の無い口

「偖こそ妖怪!」
 と純八は、腰の太刀に手を掛けると、キラリとばかりに抜き放した。途端に飛びかかる蟒《うわばみ》の胴を颯と斜めに切り付ける刹那、太刀は三段にバラバラと折れた。
「南無三宝!」
 と飛び退いた折しも、
「お逃げなさい!」
 と叫ぶ声が、背後の方から聞えて来た。
「もう逃げるより仕方が無い」
 純八は一散に走り出した。元来た方へ走るのである。走り乍ら振り返えると[#底本では「振り退えると」]、シューッ、シューッと音を立て乍ら、蟒は後から追っかけて来る。「追い付かれては一大事!」と、彼は今は見返えりもせず、命限り走って行く。行手に梅の古木があり、根元に一箇の洞穴がある。洞穴へ飛び込んだ。と、その瞬間、月の光の、ほのかに地上を照らしている、小坂観音の境内が、彼の眼前へ現れた。
「あら有難や、魔界を遁がれたは!」
「恐ろしいか! 本条純八!」――嗄れた声が背後から呼ぶ。
「何を!」
 と彼は振り返った。梅の古木の洞穴から、僧が半身を現しながら、歯の無い口を大きく開けて、声を立てずに笑っている。
「己れ妖僧!」と小刀を抜き「覚えたか!」と切り付けた。
 夥しい臭気が洞穴の中から、煙のように噴き出したかと思うと、妖僧の姿は既に消えて、斯う叫ぶ声ばかりが聞えて来た――
「……俺との縁は是で切れた! 安心しやれ安心しやれ!」嗄れた笑声を響かせたが「女の切髪気を付けよ、気を付けよ!」
 その後は森然《しん》と物寂しく、何んの音も聞えない。ただ月明に梅花ばかりが白く匂っているばかりである。

「それはさぞ恐ろしゅうござったろう」医師千斎は純八の口から、以上の物語を聞かされると、身の毛も[#「も」はママ]慄立てて驚いた。そうして暫時考えていたが、
「今後は充分注意なされて、二度と再び妖怪共に魅入られぬようなさりませ。今度魅入られたら一大事、二つ無い命を取られようも知れぬ」
「いや充分に気を付けましょう」
「当分外出などはなさらぬがよい」
「仰せに従い此処一、二ヶ月[#底本では「二ケ月」]は、家に籠ることに致しましょう」
 其処へ松太郎も訪ねて来たが話を聞くと斯う云った。
「小坂の観音の梅の古木こそ、ちと怪しいではござらぬかな」
「左様、恐らく洞穴にこそ、妖怪は籠って居るのでござろう」千斎老医も頷いて云った。
「調べて見ようではござらぬかな。その梅の木の洞穴の中を」松太郎は千斎に斯う云った。千斎は手を揮《ふ》り、顔色を変えたが、
「滅相も無い事仰せられるな。迂濶にそんな事為ようものなら、それこそ悪神の怒りに触れて、どのような兇変を受けようも知れぬ。お止めなされい! お止めなされい!」
 すると松太郎はカラカラと笑い、
「たかが妖怪ではござらぬか。何んの兇変など受けますものか」
「いやいや夫れは広言というもの。現に此処に純八殿が災難を受けられたではござらぬか」
「拙者の言葉が広言とな?」松太郎は苦い顔をしたが、自然言葉も荒くなり、「広言か否かは試した上の事! 憚ながら此松太郎には、五分の隙もござらねば、妖怪の魅入る可き道理ござらぬ!」
 すると今度は純八が、ムッとしたような顔をしたが、
「これは筒井殿お言葉じゃ、然らば拙者には魅入られるような、武道の隙間ござったのかの?」
「左様」
 と、売言葉に買言葉、つい松太郎は云い切った――
「左様、隙間があったればこそ、魅入られたのでござろうがの」
「益々以って異なお言葉、親友とて聞捨てならぬ! 先ず聞かれい筒井殿、これが人間と人間との、相対太刀討又は議論に、打ち敗かされたと申すなら、いかにも武道不鍛錬の隙間と申されても為方ござらぬが、名に負う相手は妖怪でござる。しかも神変不思議の術を自在に使う恐ろしき奴! 魅入られるのは不可抗力じゃ! なんと左様ではござらぬかな?」
 併し松太郎は嘲笑って益々自説を固執した。
「いやいや人間であろうとも乃至は鬼畜であろうとも相手としては、同じ事じゃ! 不可抗力などとは卑怯な云い分……」
「黙れ!」
 と、突然喝破して、ムックリ純八は立ち上がり、刀の束へ手を掛けた。




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