国枝史郎「稚子法師」(01) (ちごほうし)

国枝史郎「稚子法師」(01)

     一

 木曽の代官山村蘇門は世に謳《うた》われた学者であったが八十二才の高齢を以て文政二年に世を終った。謙恭温容の君子であったので、妻子家臣の悲嘆は殆ど言語に絶したもので、征矢野《そやの》孫兵衛、村上右門、知遇を受けた此両人などは、当時の国禁を窃に破って追腹を切った程である。
 で、私の物語ろうとする『稚子法師』の怪異譚は即ち蘇門病歿の時を以て、先ず其端を発するのである。
 不時のご用を仰せ付かって、信州高島諏訪因幡守の許へ、使者に立った萩原主水は、首尾よく主命も果たしたので、白馬に鞭打ち従者を連れ、木曽路を洗馬《あらいうま》まで走らせて来た。
 塩尻辺で日を暮らす、此処洗馬まで来た頃には文字通り真の闇であった。先に立った足健康《あしまめ》の従者が高く振りかざす松火の光で、崎嶇《きく》たる山骨を僅に照らし、人馬物言わず真向きに走る。
「殿のお命に別状無い中どうぞ福島へ行きつきたいものだ」
 この事ばかり懸命に念じ主水は益々馬側をしめ付け乗っ立って走らせるのであった。
 主水は生年十八歳、元服の時は過ぎていたが、主君の命で前髪を尚艶々しく立てていた。主君と彼との関係は、家康に於ける伊井万千代、信長に対する森蘭丸と大方同じものであったが、蘇門が老年であった為め、竜陽の交わり分桃の契りは全然無かったと云われている。とまれ普通の仲では無かった。
 やがて洗馬も駈け抜けた。
 其時、行手の闇を裂いて、雲か煙か三条の柱が、ぐるぐる巻き乍ら走って来た。
「主水!」――と途端に呼ぶ声がする。主水は礑《はた》と馬を止めた。と彼の前に立ったのは白衣の直垂《したたれ》、白糸縅《おどし》の鎧、白い烏帽子を後様に戴き、白柄の薙刀を抱い込んで白馬に跨がった白髪の武人――蘇門山村良由と、同じ扮装《よそお》いに出で立った孫兵衛、右門の三人であった。
「殿、何方へ参られます?」
 恐る恐る主水は訊いた。
「八万億劫の地獄へ参る」
「何用あって参られます?」
「閻羅《えんら》王、祐筆を求めるに依ってな――」
「私もお供致しましょう」
「今はならぬ、やがて参れ――そこでお前に頼みがある。馬を二頭送ってくれい〈山風〉と〈野風〉の二頭をな」
「かしこまりましてござります」――斯う云うと主水は頭を下げたが其時、鎧の音がした。
 眼を上げて見ると人影は無く、深い木曽川の谷の上を、ぐるぐるぐるぐるぐる廻わりながら、霧で出来たような三本の柱が、対岸を指して飛んで行ったが、それも間も無く見えなくなった。
「深い縁《えにし》があればこそ、お眼にもかかれお言葉をも賜わったのだ」
 嬉しさと悲さをコキ雑ぜた複雑の思いに浸り乍ら彼は合掌したのであった。
 翌朝館へ駆着けた時は既に納棺も済んでいた。昨夜の有様を披露した後、急いで厩舎へ走って行き、二頭の馬を索き出すと、まだ十足とは歩かない中に二頭ながら倒れて呼吸絶えた。
 神妙の殉死と云わなければならない。





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