国枝史郎「稚子法師」(03) (ちごほうし)

国枝史郎「稚子法師」(03)

     三

 僧になってからの彼主水は普通の僧の出来ないようなあらゆる難行苦行をした。そうして間も無く名僧となった。阿信というのが法名であったが世間の人は、『稚子法師』と呼んだ。曽て美しい稚子として山村蘇門に仕えた事があり、法師になってからも顔や姿が依然として美しいからであった。
 彼は法師となってからも決して其生活は無事では無く、絶えず妖怪に付き纏われた。併し其都度堅い信念と生来の大勇猛心とで好く災を未然に防いだ。
 要するに彼の生涯は、怪異に依って終始したのであって、左に書き記した三つの怪談は、彼の遭遇した怪異の中では、特色のあるものである。
 林は落葉に埋もれていた。秋十一月の事である。
 林の中に庵室がある。一人の僧が住んでいた。穏の容貌、健の四股、墨染の法衣に同じ色の袈裟、さも尊げの僧である――これは阿信の稚子法師であった。そうして此処は桔梗ヶ原であった。原に住んでいる鳥や獣は、彼の慈愛に慣れ親しんで庵室の周囲へ集まって来た。風雨の劇しい時などは部屋の中まで這入って来て彼の坐っている膝の上や肩の上などで戯れた。
 或深夜のことであったが据えてある五個の位牌の前で彼は看経に更っていた。故主の位牌妻子の位牌、それから八沢の橋の上で討ち果たした二人の敵の位牌!
 恩怨二ツ乍ら差別を立てず、彼は祭っているのであったが、看経中ばに不図彼は不思議な物音を耳にした。
「稚子法師の頭《つむり》はてぎてぎよ」
 調子を付けて斯う囃しながら、夫れに合わせて庵室の戸をてぎてぎてぎてぎと打つ者がある。
「はてな?」と阿信は首を傾げたが「いやいや心の迷いであろう。風が枝を鳴らす音かも知れない……」
 斯う呟くと気を取り直し一心に看経を続けて行った。と復同じ音がする。
「稚子法師の頭はてぎてぎよ」
「てぎてぎてぎてぎ」と戸を叩く音! それは決して心の迷い[#「迷い」は底本では「迷ひ」]でも無く風が枝を鳴らす音でも無い。確かに何者かが囃しているのである。阿信はじっと聞き澄ました。
 その中に彼の心持は其戸の外の囃しに連れて次第に陽気になって来た。で彼は思わず斯う云った。
「お前の頭もてぎてぎよ」
 すると戸外の其音は以前よりも一層鮮明と、
「稚子法師の頭はてぎてぎよ」
「てぎてぎてぎてぎてぎてぎよ」と面白そうに囃し出した。
「お前の頭もてぎてぎよ」と阿信も負けずに云い返えした。
 斯うして暫くは内と外とで「てぎてぎ」の競争をしたのであった。
 突然戸外で消魂しい「ぎやッ」という悲鳴がしたと思うと、そのまま急に静かになった。
 阿信はハッと息を呑んだ。その瞬間に正気に返ったが、彼は静かに立ち上がり戸を開けて戸外を覗いて見た。
 一匹の狢《むじな》が斃れている。頭が無残に割れている。
「この狢という獣は自分の頭を木に打ちつけて人語を発するということであるが、此処に死んでいる此狢も戸に頭を打ちつけてあのような人語を発したのであろう。そうして余りに調子に乗って強く頭を打った為め遂々頭の鉢を割ったのであろう――それにしてもこのような狢などに迂濶に魅入られるのは不覚の至、俺の修行はまだ未熟だ」
 阿信は口の中で呟いたが心の中は寂しかった。
 彼は翌日庵室を捨てて修行の旅へ出たのである。
 十五夜の月が円々と空の真中に懸かっていた。その明月を肩に浴びて一人の旅僧が歩いていた。云う迄も無く阿信である。
 荒川の堤は長かった。長い堤を只一人トボトボと阿信は歩いて行く。
 其時嗄れた女の声で「もしもし」と彼を呼ぶ者がある。声のする方へ眼をやると、足を高く空へ上げ両手を確かりと地上へ突き、其手を足のように働かせながら歩み寄って来る女があった。蒼褪めた顔、乱れた頭髪、しかも胸から血をしたたらせ、食いしばった口からも血を流している。
「もし旅の和尚様、暫くお待ち下さいまし」
 斯う云い乍ら近寄って来たが、
「どうぞ妾を背に負って川を渡して下さいまし」――思い込んだように云うのであった。
「いと易い依頼ではあるけれど……一体お前は何者だな?」
「此世の者ではござりませぬ。妾《わらわ》は幽霊でござります」
「その幽霊は解って居る。何の為めに此世へは現れたぞ?」
「はい、怨ある人間が此世に残って居りますゆえ…」
「それへ怨を返えしたいというのか!」
「仰せの通りでございます」
「折角の頼みではあるけれど、お前を負って川を渡ることはこの俺には出来かねる。人を助けるのが出家の役目だからの」
 云い捨てて阿信は歩き出した。




[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送