国枝史郎「天主閣の音」(02) (てんしゅかくのおと)

国枝史郎「天主閣の音」(02)

     二

「……諸事凡て江戸、大阪等、幕府直轄地同様の政治をなさんとせり。されば同年七月の盆踊には、早くも掛提灯、懸行燈《かけあんどう》等の華美に京都祗園会の庭景をしのばしめ、一踊りに金二両、又は一町で銀五十枚、三十枚、十五枚を与えて、是を見物するに至れり。嘗て近江より買ひ入れたる白牛に、鞍鐙、猩猩緋の装束をなし、御頭巾、唐人笠、御茶道衆に先をかつがせて、諸寺社へ参詣したりといふ。更に侯の豪華なる、紅裏袷帷子《かたびら》、虎の皮羽織、虎の皮の御頭巾を用ひ、熱田参詣の際の如き、中納言、大納言よりも高位の御装束にて、弓矢御持ち遊ばされ、御乗馬御供矢大臣多く召連れたり。供廻り衆の行装亦数奇を極め、緋縮緬、紅繻子等の火打をさげ、大名縞又は浪に千鳥の染模様の衣服にて華美をつくしたり。
 遊芸音曲の類を公許し、享保十六年には、橘町の歌舞伎の興行を許し、侯自らも見物するに至れり。従来かつて無かりし遊女町を西小路に起し、翌年更に是を富士原、葛原に設け、それより栄国寺前、橘町、東懸所前、主水《かこ》町、天王崎門前、幅下新道、南飴屋町、綿屋町等にも、京、大阪、伊勢等より遊女多く入り込み、随って各種の祭事此時より盛んなり」
「とみに城下は歌吹海となり、諸人昼夜の別無く芝居桟敷へ野郎子供を呼び、酒盛に追々遊女もつれ行き、寒中大晦日も忘れて遊びを事とす」
 云々と云ったような有様であった。
 が、彼が斯う云ったような、華美軟弱主義を執ったのには、一家の見識があったのであった。
 無理想であったのでは無いのであった。
 彼は夫れに就いて斯う云っている。
「すべて人といふものは、老たるも若きも、気にしまり[#「しまり」に傍点]とゆるみ[#「ゆるみ」に傍点]なくては万事勤めがたく、中にも好色は本心の真実より出る故、飯食ふと同じ事なり。それ故其場所なければ男女しまり[#「しまり」に傍点]無し。平常召使い候女も却って遊女の如く成り、おのずから不義も多く出来、家の内も調はず、国の風俗までも悪くなりゆく事なり。此度所々に見物所、遊興所免許せしめたるは、諸人折々の気欝を散じ、相応の楽しみも出来、心も勇み、悪いたく[#「いたく」に傍点]固まりたる心も解け、子供いさかひ[#「いさかひ」に傍点]のやうになる儀もやみ、田舎風の士気を離れ、武芸は勿論、家業家職まで怠らず、万事融通のためなり」

 元文元年の正月であった。
 宗春は城内へ女歌舞伎を呼んだ。
 二十人余りの女役者の中で、一際目立つ美人があった。高烏帽子《たてえぼし》を冠り水干を着、長太刀をはいて[#「はいて」に傍点]、「静」を舞った。年の頃は二十二三、豊満爛熟の年増盛りで、牡丹花のように妖艶であった。
「可いな」と宗春は心の中で云った。「俺の持物にしてやろう」
 で、彼は侍臣へ訊いた。
「あの女の名は何んというな?」
「はは半太夫と申します」
「うむ、そうか、半太夫か。……姿も顔も美しいものだな」
「芸も神妙でございます」
「そうともそうとも立派な芸だ」
「一座の花形だと申しますことで」
 その半太夫は舞い乍ら、宗春の方を流眄《ながしめ》に見た。そうして時々笑いかけさえした。媚に充ち充ちた態度であった。もし宗春が彼女の美に、幻惑陶酔すること無く、観察的に眼を走らせたとしたら、彼女が腹に一物あって、彼を魅せようとしていることに、屹度《きっと》感付いたに相違無い。だが宗春は溺れていた。そんな事には気が付かなかった。
 その日暮れて興行が終え、夜の酒宴となった時、座頭はじめ主だった役者が、酒宴の席へ招かれた勿論その中には半太夫もいた。
 所謂無礼講の乱痴気騒ぎが、夜明け近くまで行われたが、宴が撤せられた時、宗春と半太夫とは寝室へ隠れた。
 そうして座頭は其代りとして、莫大な典物《はな》を頂戴した。
 此夜は月も星も無く、宵から嵐が吹いていた。
 で、天主閣の頂上では、例の唸り声が聞えていた。それは人間の呻き声にも聞え、鞭を振るような音にも聞えた。とまれ不穏の音であった。禍を想わせる声であった。
 其夜以来半太夫は、城の大奥から出ないことになった。お半の方と名を改め、愛妾として囲われることになった。
 宗春は断じて暗君では無かった。英雄的の名君で、支那の皇帝に譬《たと》えたなら、玄宗皇帝とよく似ていた。お半の方を得て以来は、両者は一層酷似した。玄宗皇帝が楊貴妃を得て、すっかり政事に興味を失い、日夜歓楽に耽ったように、宗春も愛妾お半の方を得て、すっかり藩政に飽きて了った。そうして日夜昏冥し、陶酔的酒色に浸るようになった。





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