国枝史郎「天主閣の音」(09) (てんしゅかくのおと)

国枝史郎「天主閣の音」(09)

     九

 爾来香具師は名古屋城内へ、自由に出入り出来ることになった。
 人を避けて二人だけで――即ち宗春と香具師とだけで、密談する日が多くなった。そうして度々宗春は、香具師と連れ立って城外へ出た。二人は彼方此方歩き廻わった。何うやら、地勢でも調べるらしい。
 時々酒宴を催した。いつも其席へ侍《はべ》るのは、他ならぬ愛妾お半の方であった。
 何んの理由とも解らなかったが、不安の気が城内へ漂った。家来達は心配した。併し誰一人諫めなかった。それは諫めても無駄だからであった。活達豪放の宗春には、家老といえども歯が立たなかった。宗春以上の人物は、家来の中には居なかった。米の生る木を知らぬというのが、大方の殿様の相場であった。ところが宗春は然うで無かった。極わめて[#「極わめて」はママ]世故に通じていた。うかうか諫言《かんげん》など為ようものなら、反対にとっちめられて[#「とっちめられて」に傍点]了うだろう。
 徳川宗家からの附家老、成瀬隼人正をはじめとし、竹越山城守、渡辺飛騨守、石河東市正、志水甲斐守、歴々年功の家来もあったが、傍観するより仕方なかった。
 それに諫言するにしても、これと云ってとっこに[#「とっこに」に傍点]取るような眼に余る行跡も無いのであった。「素性も知れぬ香具師などを、お側へお近付けなされぬよう」「女歌舞伎[#「歌舞伎」は底本では「歌舞枝」と誤記]の太夫などを、側室にお使いなされぬよう」――精々こんなようなことでも云って、諫言するより仕方なかった。だが三家の筆頭で六十二万石[#「六十二万石」はママ]の大々名が、どんな妾を抱えようと、香具師のようなお伽衆を、大奥へ入れて酒宴しようと構わないと云えば夫れまでであった。
「ご微行をお控え遊ばすよう」こう諫言をした所で「今に始まったことでは無い」と、一蹴されれば夫れまでであった。
「怪しい香具師を近付けられ、何をご密談でございますな?」――まさか家来の身分として、此処まで立ち入って訊くことは、遠慮しなければならなかった。
 傍観するより仕方がなかった。
 しかし何うにも不安であった。
 よりより家来達は相談した。
「香具師の素性を調べようではないか」「お半の方の素性にも、何んとなく怪しい節がある。これも調べる必要がある」「何をご密談なさるのか、それを立聞く必要がある」「何処へご微行なさるのか、これも突き止める必要がある」
 そこで家来達は手分けをし、専門に調べることにした。みんな結局徒労に終った。香具師の素性もお半の方の素性も、掻暮見当が付かなかった。微行毎に尾行を付けたが、何時も巧妙に巻かれて了った。密談立聞きに至っては、殆ど絶対に出来そうも無かった。広い座敷の真中に坐り、四方の襖を開け放しそこで小声で話すのであった。近寄ることさえ出来なかった。
 傍観するより仕方無かった。
 真相の不明ということは、物の恐怖を二倍にする。
 城内を罩《こ》めている不安の気持が、よくそれに宛嵌まった。
 で、家来達は次第々々に、神経質になって行った。
 搗てて加えて、天主閣では例の奇怪な唸き声が、此頃益々烈しくなった。
 こうして時が経って行った。
 だが其中家来達は、意外なことを知ることが出来た。お半の方と香具師とが、同じ穴の貉《むじな》では無く香具師としてはお半の方を憎みお半の方としては香具師を憎み、互に競って宗春公へ、中傷しているということであった。
 そうして是は事実であった。
 或夜寝所でお半の方は、宗春に向かってこんなことを云った。
「妾《わたし》を可愛いと覚し召したら、香具師をお退け下さいますよう」
「何故な?」と宗春は不思議そうに訊いた。
「これということもございませんが、何んだか妾にはあの男が、気味悪く思われてなりません。可く無いことが起こりましょう。どうぞお退け下さいまし」
 その翌日のことであった。香具師が宗春へこんなことを云った。
「婦人に御不自由もございますまい。あのご寵愛のお半の方だけは殿、お退けなさりませ」
「何故な?」と宗春は不思議そうに訊いた。
「これということもございませんが、何んだか俺《わたし》にはあの婦人が変に小気味悪く思われましてな、可く無いことが起こりましょう。殿お退けなさりませ」
 宗春に執っては可笑しかった。
「二人で寵を争っているな。アッハッハッハッ莫迦な話だ」
 で、歯牙にも懸けなかった。





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