国枝史郎「天主閣の音」(10) (てんしゅかくのおと)

国枝史郎「天主閣の音」(10)

     一〇

 春が逝って初夏が来た。花菖蒲の咲く頃になった。庄内川には鮎が群れ、郊外の早苗田では乙女達が、※[#「※」は「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28、72下-5]秧の業にいそしむようになった。
 間もなく五月雨の季節となった。
 屋敷町の中庭などに、カッと赤い柘榴の花が、こぼれるばかりに咲いているのが、暑い真夏を予想させた。
 やがて土用の季節となった。ムッチリと肥えた名古屋女が、白地の単衣に肉附を見せ、蚊遣の煙の立ち迷う、水縁などに端居する姿の、似つかわしい季節が訪れて来た。夕顔の花、水葵、芙蓉の花、木槿《むくげ》の花、百合の花が咲くようになった。
 そういう季節の或日のこと、香具師《やし》はフラリと家を出て、野の方へ散歩した。
 野には陽炎《かげろう》が立っていた。夏草が塵埃を冠っていた。小虫がパチパチと飛び翔けた。気持のよい微風が吹き過ぎた。ひどく気持のよい日であった。
 児玉を過ぎ、庄内村を通り、名塚を越すと土手であった。
 眼の下に広い川が流れていた。それは他ならぬ庄内川であった。川には橋がかかっていない。渡船《わたし》を渡らなければならなかった。で彼は渡船を渡った。
 もうこの辺は春日井の郡で、如何にも風景が田舎びていた。
 一宇の屋敷が立っていた。
「はてな?」
 と香具師は立止まった。「うむ」と彼は唸り出した。「これは素晴らしい屋敷だわい。四真相応大吉相の図説に、寸分隙無く叶っている。右に道路、左に小川、南に池、北に丘、艮《うしとら》の方角に槐樹のあるのは、悪気不浄を払うためらしい。青々とした竹林が、屋敷の四方を囲んでいるのは、子孫に豪傑を出す瑞象だ。正門の左右に橘を植えたは、五臓を養い寿命を延ばす、道家の教理に則ったものらしい……どれ、間取りを見てやろう」
 南方の丘へ上って行った。
 建物は幾棟かに別れていた。
 中央に在るのは主屋らしい。香具師は夫れから観察した。
「うん中の間が九六の間取だ。金生水の相生で、万福集川諸願成就繁昌息災を狙ったものらしい。つづいて五三の間取がある。家内安寧の間取というやつだ。うん夫れから三八の間取が、即ち貴人に寵せられ、青雲に登るというやつだ。ええと夫れから九八の間取、九は艮で金気を含み、八は坤《ひつじさる》で土性とあるから、和合の相を現している。主屋と離なれ別棟があり、白虎造りを為している。楡と※[#「木+危」、第4水準2-14-64、73下-10]《くちなし》を植えたのは、火災を封じたものらしい。向き合った一棟が朱雀造りで、梅と棗を植えたのは、盗賊避けから来たものらしい。やや離れて玄武造り、杏と李を植えたのは、悪疫流行を恐れたものらしい。それと向かい合った一棟は、云わずと知れた青竜造りだ。桃と柳を植えたのは、狐狸の災いから遁れるためらしい。西北の隅に土蔵がある。しかも二棟並んでいる。辰巳の二戸前というやつだ。主人の威光益々加わり、眷族参集という瑞象だ。おやおやあれ[#「あれ」に傍点]は何だろう?」
 俄に香具師は眼を見張った。
 土蔵の横手に見たことも無い、変な建物があったからであった。屋根が陽を受けて光っていた。この時代に珍らしい硝子張りであった。屋根が硝子だということが、先ず香具師を驚かせた。建物は正しい長方形で、間口は凡一間半、それに反して奥行は、十間もあるように思われた。鰻の寝所とでも云い度いような、飛び離れた長い形であった。建物は青く塗られていた。
「驚いたなあ」と香具師は云った。「こんな建物は家相には無い。折角の瑞象をぶち壊している。一体どうしたというのだろう」
 万般が法則に叶っていて、それ一つだけが破格だけに、彼には不思議でならなかった。
「納屋で無し厩舎で無し、湯殿で無し離座敷でなし、どういう用のある建物だろう?」
 どう考えても解らなかった。
「不躾《しつけ》乍ら訪問して見よう」
 彼はこう思って丘を下りた。表門は厳重に鎖されていた。しかし潜戸が開いていた。構わず内へ這入って行った。森閑として人気が無かった。可成り大きな屋敷だのに、人の姿の見えないというのは不思議と云えば不思議であった。玄関に立って案内を乞うた。
「ご免下さい。ご免下さい」
 どこからも返辞が来なかった。尚二三度呼んで見た。矢張り返辞は来なかった。香具師は些か当惑した。
「裏の方にでもいるのだろう」
 裏の方へ廻って行った。だが誰もいなかった。
 ひっそりとして寂しかった。
 近所に家は一軒も無かった。
 香具師は次第に大胆になった。例の奇形な建物の方へ、ズンズン足早に進んで行った。
 建物の戸口が開いていた。で彼は這入って行った。





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