国枝史郎「天主閣の音」(12) (てんしゅかくのおと)

国枝史郎「天主閣の音」(12)

     一二

「然うだ」と老人は最う一度云った。「唐土渡来の眠花だ。二年生草本だ。茎の高さ四五尺に達し、その葉には柄が無い。葉序は互生、基部狭隘、辺縁に鋸歯《きょし》状の刻裂がある。四枚の花弁と四個の萼《がく[#「がく」は底本では「かく」と誤記]》、花冠は大きく花梗は長い。雄蕊は無数で雌蕊は一本、花弁散って殼果を残し、果は数室に分かれている室には無数の微細の種子が、白胡麻のように充ちている。これから採った薬液を、幻覚痲痺[#「痲痺」は底本では「痳痺」と誤記]性眠剤と呼ぶ。その採り方がむずかしい」
 老人の説明は音楽のような、快い調子を持っていた。
「花落ちて三週間、果実の表面が白粉を帯びる。その時鋭い匕首を以て、果実へ三筋切傷を付ける。この呼吸が困難しい。まず一人が果実を支える。支え方もむずかしい。食指と中指の中間で、その最下端を支えなければならない。それから拇指《ぼし》で頭部を抑え、しずかに前方へ引き寄せる。右手の匕首をそろそろと宛て、果実の中腹へ傷を入れる。その入れ方にもコツがある。深さ二厘乃至《ないし》三厘、一回に三条入れなければならない。夫れから数を百だけ呼ぶ。呼んだ時分に液が出る。ギヤマンの壺を夫れへ宛てる。竹篦で液を掬い取る。切り手と掬い手とは異わなければならない。即ち二人を要するのだ。普通一つの果実から、四回迄は採収出来る。第二回目の採収は一日後にやるがいい。三回目は二日後だ。四回目は三日後だ。午前十時から午後四時迄、液汁の分泌が特に多い。そうして曇天降雨の時には、更に一層分泌が多い。乾燥の時低温の時、分泌量が減少する。偖、次は製薬法だ。壺から竹の皮へ移さなければならない。これへ小量の種油を雑ぜる。二十五日間天日に干す。尚暖爐を用いてもいい。乾いた所で薬研へ入れる。そうして微塵に粉末にする。こうして出来上った薬品が、幻覚痲痺[#「痲痺」は底本では「痳痺」と誤記]性眠剤だ」
 ひょい[#「ひょい」に傍点]と老人は立ち上った。
 寝台に添った卓《テーブル》があった。卓の上に手箱があった。それを老人は取り上げた。
「おい、お若いの、此処へ寝な。寝台の上へ寝るがいい、そうして此奴を喫うがいい」
 長い煙管を振って見せた。
「恐く無いよ。大丈夫だ、美しい夢が見られるのだ。華聟《はなむこ》の眠りという奴だ。味を知ったら忘れられまい。人生至極の幸福だ。肉身極楽へ行けるのだ。加陵頻迦《かりょうびんか》[#「加陵頻迦《かりょうびんか》」はママ、『広辞苑』では「迦陵頻伽《かりょうびんが》」]の声がしよう。天津乙女が降りて来よう。竜宮城が現出しよう。現世の苦患が忘れられよう。忽然として花が降ろう。桜も降れば蓮華も降ろうさあ寝るがいい寝るがいい」
 併し香具師は動かなかった。気味悪そうに立っていた。
「ふふん」と老人は冷笑した。「おい、お若いの、怖いのか」
「莫迦を云え」と香具師は云った。「ただ俺には不思議なのだ」
「つまり、矢っ張り怖いんだろう」
「不思議と恐怖とは少し異う」
「解らないから不思議なのだ。不思議だから怖いのだ」
「よし」
 と香具師は寝台へ行った。
「では俺を解らせてくれ」彼はゴロリと寝台へ寝た。
「感心々々そうなくてはならない。勇気のある者は冒険する。一つの冒険は一つの智だ。知って了えば怖くはない。さあ煙管を取るがいい」
 香具師は老人から煙管を取った。老人は煙管へ薬を詰めた。それからそいつ[#「そいつ」に傍点]へ火を付けた。
 芳香が部屋へ漲《みなぎ》った。
 香具師は徐々に煙を喫った。
「厭な気持だ。嘔吐きそうだ」
「ナーニ、すぐに可くなるよ」
「厭な気持だ。変に苦しい」
「そいつあ何うも仕方が無い。その薬の性質だからな。第一多少の辛抱は要るよ。辛抱しないで楽をしよう。こいつあ少し気が可すぎる」
 その中だんだん香具師は、深い眠りへ入るようであった。
 と、ボタリと煙管を落とした。いよいよ睡眠に這入ったらしい。
 じっと老人は見詰めていた。忍び足をして部屋を出た。建物の戸へ錠を下ろした。
 それから屋敷を走り出た。
 野をドンドン横切った。
 香具師の住居の百姓家、その門口まで遣って来た。チラリと四辺を見廻わした。それから裏手へ廻って行った。
 裏口の戸も閉じていた。それへ障《さわ》ろうとはしなかった。彼は足踏をやり出した。地面を足でトントンと踏んだ。そうして音を聞き澄ました。腰を曲げて手を延ばした。地面の一所へ手を触れた。と、何かを握ったらしい。それをグイと持ち上げた。それは鉄の輪であった。ウーンと其輪を持ち上げた地面へポッカリと口が開いた。
 この時三日月が空へ出た。





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