久坂葉子「落ちてゆく世界」(6) (おちてゆくせかい)

久坂葉子「落ちてゆく世界」(6)

 翌朝。
 いつも早く目ざめる父が今日に限って、うんともすんとも云わないのを不審に思い、しずかに襖をあけました。と、私は其処に父の死体をみたのです。いえ、近寄ってみて始めてわかったのでした。青くなって、うつぶしている父の体にふれました。ぬくみがほとんどありません。父は死んだのです。私はおどろきました。信二郎を起しました。叔母を呼びました。母に電話をかけました。とにかく、すぐに帰えるようにとのみ伝えたのでした。私は何をすればよいのやら唯茫然としたまま父の顔をみつめております。けれど、悲しいとか、お気の毒だとかいう感情はちっとも湧いて来ません。信二郎は父の机の抽出しをゴソゴソかきまわして何もないというなり部屋へはいってしまいました。父は、嗅薬を飲んだのでしょうか、その劇薬が、からになっており、コップに水が半分のこっておりました。昨夜、少しの呻吟もきこえなかったことが私には不思議に思えました。あの目がさめて起き上った時は、もうすでに死んでいたのでしょうか。父の死が、本当だろうかと疑う気持さえ起りました。叔母が、湯を沸して持って来ました。母が帰りました。私も手伝って、死体の処置をいたしました。母は口の中で神勅をとなえながら泣いております。春彦を呼びにやって近所の心やすい医者がまいりました。私は父の死の動機が、病苦からか、神経衰弱がこうじたからか、或いは虚無か、貴族の誇のためなのか、考えてみようと致しました。が、すぐに、どうでもいいじゃないか、という気持になって、一人自分の部屋へはいって昔の父のことを回想しはじめました。
 父は孤独な変人でした。人から愛されない人でした。友人を一人も持っておらず、順調に育ったであろう筈の父は、妙に意地けて、ゆがんだ性質でした。若い頃、マルキシズムにはしったこともあったそうです。そんな父が、たった一つの憩いの場所の家庭に於いて親しもうとしながら、かえって子供から、はなれられたことは、父の最も不幸なことだったかも知れません。でもこれは子供達の罪ではありません。父の性格と時代のへだたりのせいでした。父は自分から孤独のからの中にはいっておりました。父は又、恋愛などは罪悪のように考えていたようでした。母との結婚は勿論親から決められた平凡な御見合結婚でしたし、私の記憶上、父が女の人の名前すら云ったことはないようでした。私達が、冗談半分に、どこの奥さんが美しいとか、誰の型《タイプ》は好きだとか話しますと、大変嫌な顔をいたしましたし、新聞などの情事事件をあれこれ批評することも、父の前では出来ませんでした。私達子供が成長するにつれ、父との距離はどんどん遠くなって行くのでした。母はと申しますと、父よりも神様、なんでもすべて神様でした。私達は肉体的にのみ親子であって、同じ姓を名乗る人にすぎないのでした。意見のちがいだけではありません。生きるということからしてちがう意味でちがう方法であったようです。
「父様は食べないでも食べた風をよそおう人なのよ。お金がなくともあるようにみせる方なのよ。貴族趣味なのね」
 私はよくそう申しました。父には、そういう孤りで高い所にいるといった誇のようなものがありました。でも、父と私と一つだけ、ほんのわずか愛し合うことの出来る時がありました。絵を描いている時と、陶器を愛玩する時でありました。私と父は無言で喜びをわかちあうのでした。展覧会に行って私達は二人の世界を見つけておりました。一つの筆洗が二つの絵をそれぞれつくり上げる時に、私達だけの安息場所を感じていたのです。母もはいることの出来ないところでした。一つの仲介物があって、それが父と私を和合させていたと云えましょうか。
 私は父の机のところに行きました。この間少し気分のよい時に、私にまとめさせた句集がありました。

   いつまでの吾が命かやほたる飛ぶ

 句集を何げなく開いたところにこの夏の作がありました。私は信二郎の部屋へ行きました。信二郎はダイスをころがしながら口笛をふいておりました。
「口笛、お止しなさい」
 私は、少しきつく云いました。信二郎は、素直にやめました。そうして、
「姉様、父様は死んだ。僕は生きる。父様の行き方を僕はならわない」
 と、むっつりした顔で云いました。
「信二郎さん生きるのよ。でも、父様の選んだ道はあれでまたいいの。軽蔑出来ないの、若し、あなたが自殺したなら私はゆるせない。父様がお死にになったのは、いいのよ。いいのよ」
 私は、ふと兄の事を思い出しました。兄にしらせねばなりません。お体にさわるといけないけれど、とにかく後継者なんだからお呼びせにゃならないし、そのことを、母と叔母とに相談しました。
「信二郎を呼びにやりましょう。唯、御病気がひどくなって、とうとう駄目だったことにして」
 結論はそういうことになって、信二郎は、しぶしぶ病院へ行きました。人が多勢、入れかわり立ち代りにやって来ます。その接待をしながら、私は父の死を感じないのです。白い絹でふとんを作りながら、私は、それが、父の体をつつみ、木の箱の中におさまり、やかれるのだとは思えません。昔長く家にいた女中が、午後来てくれて、私はすっかり用事をまかせて、又自分の部屋に戻ると、ふたたび、父についての思い出をたぐりはじめました。父と私は、新緑の奈良や、紅葉の嵯峨野をよく散策しました。古寺を尋ね、その静かなふんいきの中で色をたのしんだり、形をながめたりしたのです。
「母様とね、まだ結婚して間なし、こうやって、奈良や京都をあそんだ事があるんだよ。母様は、つまらなくて仕方がないという風でね、父様が一生懸命、建築の話をしているのに、居睡りはじめたこともある。かなしかったよ」
 そう云って、父はさみしく笑ったこともありました。でも、母としても父には不満があったわけなのでしょう。東京で比較的自由な娘時代を送った母にとって、父の趣味は理解出来ず、ダンスや音楽や、そういう方面にうとい父は、ばんからな、やぼな男だったでしょう。公使館のパーティの話をよく私はきかされました。馬に乗って軽井沢をかけまわったこと、大勢の男友達とスキーに行ったり、ヨットにのったりした青年時代。父と母とは、とけあう事が出来なかったのは、当然だったでしょう。そして父は母にないものを私に求めました。父の持つ趣味は私だけが又持っておりました。兄も弟も、母のものばかりを受けておりました。けれど私は、派手なこと、つまり母の部分も持っておりました。
「シャンデリヤや香水が好きよ。ろうそくの灯で、ぽつりぽつり喋ることも好きよ。お寺であのお線香のにおいをかぐのも好きよ」
 私はこう云ったこともありました。夕方になって、自動車で兄と弟が帰って来ました。兄は痛々しいほど泣きました。
「僕が、こんな体で申し訳ございません。父様。父様。屹度《きっと》もう一度家を興します。僕が丈夫になって、やってみせます。父様、きこえますか、父様、お返事をして下さい」
 死骸にむかって真面目に必死になって言葉をかけている兄の姿に、私はわずかばかり心打たれました。
「死人に口なしさ」
 弟がため息と一しょにそう云いました。私はだまって弟に目くばせしました。兄に弟のすっかり変った様子をみせたくなかったのです。御通夜の人達のために、私は女中と御料理をいたしました。火鉢を並べたり、御ざぶとんを出したりいたしました。以前、執事をしていた豊島が来て、兄や叔父達と葬儀の相談をしました。死亡通知の印刷のこと、新聞掲載のこと。遺産のこと。勿論遺産と云っても、今住んでいる土地家屋と菩提寺の他は何もありません。そんな話が随分長くつづきました。あれこれ小さい道具を買いととのえることだけでも意外に多くのお金を使わねばなりませんし、葬儀の費用は、とにかく、知合先や会社関係より借用することにして予算をたてたりもしました。私は、ふと松川さんのお祖母さんの葬儀の時を思い出しました。父には金歯が四五本もあるのです。あの話の時の父の苦い顔を思い出しました。金歯のことは黙っておりました。御通夜の人達よりはなれて部屋へ戻ると、私は信二郎に頼まれた欠席届を書くことに気付いて、硯箱をあけました。墨をすりながら、私が小学校の頃父に呼びつけられて硯の墨すりをさされたことを思い出しました。たくさんの墨水をつくります。お皿にあけてはすり、あけてはすりました。そうです。松の絵にこっておられた時でした。最近は小さい淡彩の絵ばかりでした。



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