久坂葉子「落ちてゆく世界」(2) (おちてゆくせかい)

久坂葉子「落ちてゆく世界」(2)

 あくる日――
 私は兄の見舞いに病院へ行きました。たった一人の兄は信一といって大学に通っておりましたが、戦争中の無理が原因となって、一昨年の夏、肺結核のため入院したのでした。要心深い細心な人ですから、入院して以来、一歩も外へ出ずに、じっと養生しているのでしたけれど、この病気は簡単にはなおらず、今も気胸をつづけて入院しているのでした。
 長い廊下をつきあたるとすぐその端の部屋が兄の病室でありました。庭に咲いた菊を五六本、新聞紙に包んだのを私は持っております。ノックをすると低い声で返事がありました。
「おはようございます。いかが、御気分は」
「やあ」
 兄は上半身を起して私の方をみました。
「きれいな菊、中庭のかい」
「ええそう、香りはあまりないけれど」
 私はコスモスが枯れたままつっこんであるペルシャの青い壺に、その菊を活けました。白いはなびらときいろい芯とがこの青い壺にはよくうつります。柔い丸みの壺の肌を、兄は大変好んでいて、売れば随分の価になるものでしたけれど、兄のためにおいてあるのでした。
「兄様、父様に輸血をしたの」
「父様随分おわるいの?」
「そんなでもないのよ、いつもの如くなの。雪子の五百円也の血……、ふふ」
 私は白いお皿を思い出して笑いました。
「五百円って?」
「売ったのよ、血を……」
「え、お前、父様に? そして五百円受けとったの?」
「いけない? 雪子、それみな使ったわ、今度ん時は兄様、モツァルトのレコード買ったげるわね」
「親子じゃないか、しようのないひとだ」
 話はとぎれます。私はサンダーボックスのふたをあけて、兄の好きなというより、もう心酔してしまっているモツァルトのものをかけ出しました。ニ長調のロンドです。兄は白い敷布の上に長く寐て目をつむりながらきいております。
「ねえ、信二郎さんがジャズバンドのアルバイトやりたいって、雪子に昨夜云ったんだけど、兄様、どうお思いになる?」
「信二郎が、あれ勉強してるのかい、夜稼ぐのじゃ大変じゃないか、おそく迄なんだろう」
「でも土曜日曜らしいことよ。それも、きまってあるのじゃなくて……」
「僕のように体をこわしちゃつまらないからな、で何をやるの」
「スティールギター。借りるんだって? で一二回やれば自分のを買う事が出来るっていうの」
「まあ、場所が場所だから、僕は反対だけれど……。二年間も世間と没交渉なんだからな、口はばったいことは云えないね。僕の気持も世間からみれば馬鹿な時代おくれなものだろうが……」
「兄様、そんなことはない。どんな世の中になっても兄様はモツァルトの音楽を愛する方でなきゃ……」
 私は兄の部屋をあらためてみまわしました。中宮寺の観音像やモツァルトの肖像の額がかけてあります。その下には、外国の絵の本やカタログや、レコードの類がぎっしりあります。この夏、皮表紙のルーヴルのカタログを売ろうと云い出した時、兄は怒ったように私の瞳をにらんでおりました。そして、あのレコードを、この本をと、あれこれ買って来てくれといつも私にたのむのです。私はそのために、お金の工面をせねばなりません。一カ月でも注文品をおくらせますと、大変な権幕でおこり出してしまうのです。
「とにかく、信二郎のことは私が責任持つわ、あれだってもう、本を買ったりしなきゃならないんですものね」
 私は病院の玄関まで送りに出て来た兄と握手をして坂を降りました。悄然とたたずんでいるその兄の姿は、どうみても時代の臭いのない、もう世間から追い出しをくった者のような気がして、さっきはなしたことを思い出しながら私自身かなしくなりました。
 病院の帰りに、古いジャケットを売って三百円得ました。それで私はコーヒをのみ、インキと便箋を買い、残りの百円で映画でもみようとにぎやかな街に出ました。と、そこに、信二郎の後姿をみました。三十五六のやせ型の美しい奥さんと一しょです。まっぴるま、学校へは行かないで。私は不安な気持になりました。いつになくズボンの折目をただすために寐押しをしていた昨夜の信二郎の姿を思い出します。私はその後を三十米《メートル》もつけてあるきましたが、ふと横筋にそれるとそこの袋小路で長い間ただつったっておりました。信二郎は一体どんな気持でいるのでしょうか。
 信二郎は小さい時から気立てのやさしい素直な子でした。体が弱く一年のうち寐ている方が多いようでした。自然、外へ出て近所の子供達とあそぶような事はなく、家の中で本をよんだり縁側でカナリヤの世話をしたりすることを好んでおりました。他所の人がよく勝気な私と比べて、信二郎と私といれちがっておればよかったと申しました。顔立ちもおとなしく、今でも餅のような肌をしていて、目の下などにうすいうぶ毛があります。背は私よりかなり高いのですが、抱きしめてやりたいようなあいらしさを持っております。私は姉が弟に対する世間一般の気持以上のものをいつからか持っておりました。若い仲間より自分が一人とりのこされたようなさみしさをなくすために、私は、よくお酒をのみにゆきますけれど、そんな時、わいわいさわいでいる中に、たえず信二郎のことは忘れませんでした。信二郎は姉の私に口答えもせず、いい子でしたけれど、私のともすれば行動にまで出る愛撫をきらっておりました。それなのに、信二郎は年上の奥様の愛撫をうけているのではないでしょうか。おさげの女学生なら私は何とも思いません。相手が私と向いあっているような人だけに私は敗北感に似たものを感じ、嫉妬さえおこしました。露地を出て、家へかえるまで私は信二郎のことを考えつづけました。映画をみる気も起りません。この頃、よく新聞に出ている阪神間の婦人方の乱行ぶりの記事がちらと頭をかすめました。信二郎だけはまっすぐに歩んでほしいのです。兄様は落伍者、私は女なのですから、始めっから大した希望も抱負もないのです。信二郎が大きくなってこの家をおこさねばなりません。家産の傾きを元へ戻さねばなりません。いやそれよりも信二郎だけでも安定した平和な生活をおくってほしいと思うのです。私はあの子の力にならなければ。母様は教育もなく、もう毎日のたべることだけで他のことは考える隙もないのです。父様も廃人。私は足をはやめました。門をはいると別棟の茶室の庭で、父の妹の未亡人が火をおこしておりました。もう何十年か前に主人をなくして、今は中学へ通っている一人の息子の春彦と二人、編物の内職とわずかな株の配当でくらしております。
「唯今、おばさま」
「おかえんなさい。そうそう郵便が来てましたよ、二三通だったかしら」
 狭い船板で出来た縁側には、おいもがならべてあり、その横で野菜をきりかけたまま庖丁が放り出してあります。昔、その茶室で四季にかならず御茶会をしておりました。湯のたぎる音、振袖のお嬢さんや、しぶい結城などきた奥様の静かな足さばき。ぽんとならすおふくさ。今は、青くしっとりしていたたたみも、きいろくところどころやぶれておりました。
「雪ちゃん、おばさん今日から一日を五十円以下で済まそうと思ってるのよ。朝は番茶とパン、おひるは漬物と佃煮、夜は一日おきに蒲ぼことちくわ」
 叔母はそう云ってからから笑いました。この叔母のお嫁入の頃は家の全盛時代でしたから、そのお嫁入のお仕度は、叔母の美貌と共に随分世間に評判になったのでした。あの頃の追憶ばなしを父や叔母は度々いたします。何しろ私達が生まれる頃はやや降り坂だったらしく、その豪華版を私はしりませんでしたけれど、父の生まれた所など通りすがりに眺める度に茫然とするのでした。その屋敷は戦前人手に渡り水害のため全壊し、又空襲でわずかにのこった門番小屋や大門も焼けてしまっておりました。園遊会の写真などを土蔵の隅にみつけ出したりする時に、こんな生活を羨しがったり、或いは祖先がそういう生活をしたと得意がる以上に、明日知れぬ運命をおそろしくさえ思うことが度々ありました。いくらかかたむきかけた私達の幼少の頃と云っても、今思い出しておかしくもさえある生活でした。すぐ近くへ行くにも自動車に乗りショフワーの横の席を子供達は取りあいでした。幾人ものお客様をもてなしたりしたことを思い出します。お二階の御座敷には、大きなぶあついおざぶとんが並べられます。女中達が、白いエプロンをぬいで黒ぬりのお膳をはこびます。お茶碗などは、そんな時特別にしまいこんである桐の箱より出します。床の間には、三幅のかけ軸がかけられ、大きな七宝焼の壺にその季節々々の一番見事な花が活けられます。私もお振袖をきてお客様に御挨拶を致します。けれど、じっと坐ることが出来ないのですぐに奥へひきさがって兄や信二郎とおしょうばんの御馳走をたべます。その頃はそれがとりたててたのしいことではなく当然のように思っておりました。
 その夜、遠い親類にあたる松川の祖母さんの葬儀よりかえった母が、食事の後でこんな話をしました。
「松川さんのところのおばあ様ね、まあ、御葬式の費用に仏様の金歯をはずしなさったそうな、いくらなんでもねえ、ひどい世の中になりましたよ」
「どうしていけないんだい?」
 信二郎が傍から口を出します。私は父の顔をちらとみました。
「どうしてって、あきれた子だよ、死んだお人の身についているものなんですよ」
 と母は申します。
「いいじゃないか、おん坊に盗まれるよりかしこいさ、姉様どう思う?」
「私もいいと思う。とがめることはないわ、信二郎さんみたいに、唯物論者じゃないから死者の霊をまつりたい気持はあるわ、でも、金歯を抜くことが死者の霊に対して無礼だとは思わないわよ。それで御葬式してあげられたらいいじゃないの」
 父はにがい顔をして黙っております。叔母がとんきょうな声を出しました。
「だって、誰が抜くのよ」
「誰か、歯医者さんにでも」と私。父がその時はじめて口をひらきました。
「いやな話、もうよしたまえ、お前達は父さんが死んだら、たくさん金歯があるから、それでうんと食べるんだね」
 私は笑いながら云いました。
「雪子が死んだってあてはずれよ。金歯なんて一本もないわよ。人間の価値少しさがったわね。でも生きているうちはない方がよさそうね」
 話はそこでぷっつり絶えてしまいました。
 食後、私は信二郎の部屋へ行きました。勉強しているのかと思ったらごろんと横になって煙草をふかしております。
「勉強なさいよ。何してるの、時間が無駄よ」
「考えてるんだ、無駄じゃない」
「何を御思索ですか、紫の煙の中に何がみえるのでしょう」
 私は茶化すように申しました。
「ほっといてくれよ、うるさいね」
 信二郎はおこったような顔をし、私の方へ背中をむけました。私はその傍へすわってしばらくの間、じゅうたんの破れ目から糸をひっぱったりしておりましたが、
「あなたきょう、学校へ行かなかったのね、大学だからいいのかも知れないけれど」
 とやさしく問いました。信二郎はだまっております。
「街であなたをみかけたの、一人じゃなかったわ、お友達とでもなかったわ」
 何か云おうとするのをさえぎって私は更に、
「何もききたくないし、云いたくもない、でもそのことから……、やっぱりバンドはよしましょう。姉様、何とかして本代位、こしらえてあげます。姉様はあなたにしかる資格はないかもしれない、けれどあなたの将来を案じてるの、偉そうなこと云ってって、あなたはおこるでしょうけど……」
 と云いました。
「何も姉様に対しておこらない。だけど、僕は僕勝手に生きるんだ。バンドのことはよすもよさないも駄目になっちゃったんだ」
「今日の、どこかの奥様なんでしょう。どんなお交際なの」
「どんなでもいい、どんなでもいい。姉様あっちへ行って。僕を一人にしておいて下さい」
 私は立ち上りました。そして自分の部屋へはいると急に信二郎がかわいそうになって来ました。どんな風に生きるのか、私はやっぱり黙っているのがいいのでしょうか。信二郎は信二郎。私は私。私は私しか導くことも出来ないし、制御することも出来ないのです。寐る前に信二郎の部屋の前にもう一度何気なく来た私は、そこにすすり泣く声をききました。




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