久坂葉子「華々しき瞬間」(02) (はなばなしきしゅんかん)

久坂葉子「華々しき瞬間」(02)

     二

 街の真中に川が流れているのは、いくら汚濁の水といえどもいいものである。近代的な高層建築や、欄干のある料理屋などが、少しも統一されていないまま水にうつる。ガス燈でもつきそうな橋近くに、「カレワラ」のガラス窓がみえる。やはり川に面していて入口は電車通り。喫茶店ではあるが、御客がやって来ても注文ききなどしない。
 南原杉子は隅の小さな丸テーブルの前で、さっきからかきものをしている。まるっきり知らない大阪へやって来て、最初あてずっぽうにはいった店が此処であり、珈琲は大して美味しいとは思わなかったが、店の人が商売人くさくないことと、川を眺めるたのしみとで、彼女は度々やって来ていた。カレワラという名前も少しは気にいっていたのかも知れない。
「お水をもう一杯ください」
 からのコップをもちあげて、スタンドの方へ声をかけた彼女は、その時どやどや二三人の客がはいって来るのに目をとめた。
「お疲れでしたでしょう。さあどうぞ。奥の御部屋でしばらく御休みくださって」
「あ、どうも」
「蓬莱さん、相変らずカレワラは森閑としてますね」
「そうなのよ。商売に馴れない者は駄目ですわね。でも私よろしいの、此処は御稽古にもって来いの場所なんですもの」
 その間に、水のはいったコップが南原杉子の前のテーブルにおかれた。
 客は正確に云えば二人なのだ。一人はここのマダムであること位、南原杉子もうすうすわかっていた。さて、年とっているのに見事、髪毛をちらかせて、でっぷりとふとった婦人。蓬莱とよばれたマダムのサーヴィスぶりに、悠然とこたえながら奥へゆく途中、ちらりと南原杉子の方をみた。南原杉子も彼女をみあげた。リード歌手谷山女史である。何度か会見したことがあるのだが、谷山女史の方は気がつかない。何故なら、南原杉子の容貌は非常に印象的であるにかかわらず、自分の歴史を自分でまったくおおいかくしているのだから、表面におくびにも東京時代の南原杉子をにおわせていない。谷山女史ともう一人のつれの男は、マダムにしたがって奥の部屋へはいった。南原杉子は、水を一度にのみほすとかきものをつづけはじめた。もはや谷山女史のことなど忘れている。が、やがて奥の間からきこえてきたピアノの音と、女の歌声はきいている。うたっているのはマダムにちがいない。そのうち、一人、二人、楽譜をかかえた若い女性がやって来ては奥へ通ってゆく。
 南原杉子が、かきものを終えて、万年筆を机上にころばせた時、「おお」と声がした。
「何だ、やっぱりあなただったの(実は気付いていたのだ)」
「さっき、わからなかった。髪の型がちがうとまるで違うのですね。相変らずいそがしいですか」
 南原杉子の傍の椅子へかけた男は、せわしく煙草に火をつけた。煙草を吸いに奥から出て来たようである。南原杉子も煙草をとりだした。
「ポルタメントつけすぎね。ここのママさんは趣味でうたをならってらっしゃんの」
「まあ趣味かな。でも関西じゃちょっと有名ですよ」
「谷山さんも落ちたみたいね」
 南原杉子は何気なく笑った。
「だけどいい声だ」
「だれ、ああママさん? 声のいいのは天稟ね。モーツァルトかジプシーソングか」
 男は黙っている。
「門外漢だから云えるのね」
 男は更に黙っている。
「御趣味拝聴って時間つくればいかが? スポンサーはアルバイト周旋屋」
「女史は何が出来るんですか」
「わたくし? パントマイム」
 男は笑った。南原杉子は男を笑わせたことをひどく面白がった。何故なら、この男と二三度会っていながら一度も男の笑いをみたことがなかったからだ。
 仁科六郎。彼は、放送会社につとめている。南原杉子は、仕事のことで、彼と事務的な会話をしただけである。
「ここの喫茶店、よく来られるのですか」
「たびたび。でもママさんとは話をしたことがないのよ」
「御紹介しましょうか」
「(興味ある? ありそうね)どうぞ」
 丁度、マダムが出て来た。上々の機嫌である。そこで、あたり前の紹介が行われた。
 南原杉子。仁科六郎。蓬莱和子。偶然、予期しなかったところに大きなつながりが生れてしまうことはよくあるものだ。その場合、過去になってから、発生の時のことなど別に問題ではない。何ごとでも、ごくありふれたつまらないところから出発するものだ。
 その日の三人はそれで終った。南原杉子は、珈琲代をハンドバッグにしまいこんでカレワラを出た。彼女の意識の上には、すでに、仁科六郎と蓬莱和子の存在はなかった。いつも巻上髪をしているのに、今日は長くたらしていた。巻上髪の自分を初対面の蓬莱和子にみせるべきであった。と、ふと南原杉子は思っただけである。彼女は、胸をはって道をあるき、ダンス・レッスン場へおもむいた。彼女は、週に三回、ダンス教師をしている。レッスン場では、赤羽先生になっていて、ダンスの教師だと、そこへ来る連中は思いこんでいる。別に、レッスン場でピアノを教えている。十人位の弟子もある。彼等はピアノの先生だと思いこんでいる。全く、そうに違いないのだ。
 南原杉子が、蓬莱和子のことを思い出したのは初対面の日から二三日後であった。いそがしくてカレワラに寄る時間もなかったのだ。真昼のサイレンと共に、エレベーターにとびこんで、放送会社へやって来た彼女は、受付のところで仁科六郎にばったり出会った。



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