久坂葉子「華々しき瞬間」(12) (はなばなしきしゅんかん)

久坂葉子「華々しき瞬間」(12)

     九

「私、子供が出来たらしいですわ」
 仁科たか子は、夫六郎の枕許にすわっていた。欠勤四日目である。流行性感冒にかかって仁科六郎はひどく高熱を出して苦しんだ。たか子は献身的に看護した。熱も降り坂。だが、まだ起き上ることは出来ない。うつらうつらゆめをみていた彼は、彼女の声にはっとした。彼は、阿難のことしか意識の中になかったのだ。
「それはよかったね。身体を大事にして」
 仁科六郎は、しばらくしてぽっつり云った。彼は子供をほしがっていた。けれど、最近は子供のことに関心を持たなくなっていたのだ。
「あなたこそ早く元気になってほしいわ」
 流行性感冒にかかったということは、平常から体が弱っていたのだと、たか子は解釈していた。彼女は夫を疑わなかった。夫婦関係の間隔がいつのまにかひろくなっていたのだ。
「今、何時だろう」
「二時すぎよ」
 仁科六郎は又目を閉じた。
「あなた、うわごと云ってらしたわよ」
「なんて」
「よくわからなかったけど御仕事のことでしょう。私、会社へ今朝電話しておきました」
「そうか」
 仁科六郎の瞳の裏に阿難が浮んでいる。夢で、ドビュッシーをきいていたのだ――阿難がピアノを弾いている。その背後に自分がたっている。突然、彼女が弾く手をやすめた。ところがピアノは鳴りつづけている。ふしぎでしょう、と彼女が笑う。そして、ピアノの傍からどこかへ逃げ出そうとする。自分が追いかけようとする。突然、彼女が両手で顔を掩い泣きはじめた。近寄ると、私を苦しめないでと云う。――
 仁科六郎は、阿難が泣いている姿を、現実にみたことがないのに、夢でみたことに何か不安を感じた。
「ねえ、どっちだと思う。男の子かしら女の子かしら」
「どっちがいい」
「女の子がほしいの」
「何故」
「私が、女にうまれてよかったと思うから」
 仁科六郎は、はっきり目をひらいて、たか子の顔をみた。
「ね、幸せそうでしょう」
 仁科六郎は、その言葉を率直にうけとることが出来なかった。
「気の毒だと思っているよ。仕事が仕事で、帰りはおそいし、酒はのむし、月給はすくないしね」
 彼は、そしてたか子の顔から視線をはずした。
「そんなこと。私は大事よ、あなたが」
 仁科六郎は、甘える気持でたか子の手をつねった。
「腹がへったから、何か食べさせて」
 たか子が台所へたった後、仁科六郎は阿難のことを又考えはじめていた。一分もしたろうか、彼は、両手をくみあわせて、自分の内部に発見されたことに驚いた。
 ――ゆるしてくれ、と僕は阿難に云っているのだ。たか子へ愛情がないとは云え、夫婦生活をおくっているのだ。それを僕は阿難にすまないと思っている。たか子に、ゆるしてくれとは思っていない――

 南原杉子は受話器を降した。仁科六郎はまだ休んでいる。会社の机の前の椅子にこしかけて、煙草を吸いながら、彼女の表面に現れた阿難を煙でかくそうとした。その時、別の卓上の電話が鳴った
「南原さん、御電話です」
 彼女は、紙片と鉛筆をもって、その電話にちかづく。
「もしもし、南原でございます」
「もしもし、蓬莱建介でございます」
「なんだ、あなたなの」
「どうして電話くれない?」
「あなただってくれない。待っていたのよ」
「きょう、きみの生活に、少し割こむ余地があるかい」
「ある。ガラアキ」
「六時」
「カレワラで」
「駄目、梅田のね、そら新しいビルの地下で」
「わかった」
 南原杉子はガチャリと受話器をかけた。阿難が、いたましいさけび声をあげた。

「不思議だね。僕が今迄抱いていた女性観がくつがえされそうな気がして来た」
 蓬莱建介は、南原杉子を、たった二時間だけの相手に出来なくなって来たようだ。今迄のように、二時間後に、これでしまいと決め、次はさらりとした気持で新しい女に自分をむかわせる。そして、又偶然別れた女に出会えば、出会った時に新鮮になれる。ところが南原杉子の一夜の後、彼女を、他の女性のように、簡単に処理出来なくなった。
「あなたは、スポットガールを何故私に会わせたのでしょうね」
 しばらく笑っていた南原杉子が突然話題を転じた。
「深い意味はないがね」
「そう、それなら、スポットガールのこと私忘れてしまうわね。ちょっと煩雑すぎて来たから」
「何が」
 南原杉子は答えなかった。蓬莱建介は、蓬莱和子の夫であるだけでいいのだ、と彼女は思った。
「ところで、君と僕の間を永続させる希望があるかね」
「永続? だって、あなたは私を深く好きじゃないでしょう」
「君は、愛されてもいない人に肉体を提供したと思っているのかい?」
「そうよ。だけど、私、あなたが好きなんだから後悔しないわ。どれだけ永続出来るものか、わからないけれどもね」
「僕に愛されたいとは云わないのかい」
「云わないけど、思うわよ。云えない筈よ」
「愛してるかも知れんぞ、六ちゃんと決闘するかも知れんぞ」
「おやんなさい」
 南原杉子は、故意につめたく云いはなった。冗談に対して、冗談でこたえかえすのは、つまらないと思ったからだ。その上、南原杉子は、仁科六郎の名前が、この空気の中に出たことを少し悲しんだのだ。阿難の部分が、既に大きくひろがっている。蓬莱建介は、南原杉子の表情をみておどろいた。
 ――こいつは本当[#「本当」に傍点]なのかもしれない。うっかりすると、僕がワイフに強いている、蓬莱夫人の地位を、逆にワイフから蓬莱氏の地位をと、強いられる結果になりはせぬか。南原杉子は、自分の行動に於いて、まったくエゴイズムなんだし――
「すると、勝負は僕の負だね」
 蓬莱建介は、南原杉子との勝負を意味したわけだ。ところが、南原杉子は、仁科六郎と蓬莱建介との勝負にとった。だから、僕の負だと云った言葉を面白がって笑った。蓬莱建介は不気味な笑いだと思った。
 その日は泊らなかった。

 南原杉子は、下宿の二階で煙草をやたらに吸った。
 ――抵抗を感じたのだわ、阿難が、私に抵抗を感じさせたのだわ、そして、エクスタセの中に、はっきりと仁科六郎が存在していたわ。彼はひどく真顔だった。それは、私にとってよろこばしい発見なんだわ――
 ――何をいうの、阿難をいじめてるみたいよ。阿難ははやく仁科六郎に会いたいわ。会った時、阿難は、蓬莱建介と南原杉子のことを告白するわ――
 ――いけない。それはいけない。だけど仁科六郎に会う迄、蓬莱建介には会わないわね――
 ――南原杉子。あなたは無智な女だわ――
 ――阿難、私は無智な女かも知れないわね――

 蓬莱建介の帰りを、待つという気持で待つようになった蓬莱和子は、ピアノをたたいて大声でうたをうたっていた。南原杉子も仁科六郎も、カレワラに顔を出さない。いつでも、自分が真中につったっていないと、気が済まない彼女は、その二人の沈黙と併せて、夫の行動が案じられたのだ。彼女は、自分でおかしい程うろたえはじめた。三人からボイコットされている。彼女の心の中には、すでに、南原杉子へのにくしみが存在していた。
 蓬莱建介は終電車で帰って来た。黙っている。蓬莱和子の方からは、南原杉子のことを口に出しかねた。愛想よく、夫の着替えを手伝いながら、彼女の内部は、ざわめきがはげしい。蓬莱和子は、貞淑な婦人の持つ感情を、はじめて抱いたのである。



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