久坂葉子「華々しき瞬間」(16) (はなばなしきしゅんかん)

久坂葉子「華々しき瞬間」(16)

 仁科六郎は飲んでばかりいた。喋ることがとても出来ないのであった。阿難がまぶしい存在に思われた。何か、遠いところにある女性のように思われた。そして傍にやさしくうつむき加減でいる妻たか子の方が、安心して接近出来る人に感じた。
「南原さんは御結婚なさいませんの」
 仁科たか子は、こんなことを云ってわるいのかしらと思ったが、酔い心地で、南原杉子に恍惚としながら、おずおず云ってしまった。
「お杉は、結婚なんか馬鹿らしくって出来ないと思ってるのよ」
 蓬莱和子は、まともに南原杉子を凝視しながら云った。
「いいえ、そうじゃありませんの、たか子さん、わけがあるのよ」
 仁科六郎は頬を硬ばらせた。
「南原女史だって、結婚したいと思っているさ、だが彼女はまだ気にいった人がないと云うわけさ」
 蓬莱建介は、ねえ、そうだね、という表情で南原杉子をみた。蓬莱和子は、又真珠の玉をにぎった。
「あなたは、いちいち私の云うことに反対なさるようね」
 蓬莱和子は、少し冷淡に、夫建介をみた。
「あら、私、あなたの解釈とも、御主人の解釈ともちがったことで結婚しないのですわ、老嬢秘話をあかしましょうか」
 仁科六郎はうつむいた。
「私、勿論、結婚してらっしゃる方をみて、羨しい限りなんですよ。でも、結婚しませんと誓ったことがあるんです。昔のことですけど、純情少女の頃、純情な少女がある男の死に捧げた誓いなんですよ」
 ――その少女は阿難なのだ。その男は、仁科六郎なのだ。そして、それは過去ではない。現在なのだ――
「おどろいたわね、お杉は子供なのね」
「そうよ、みえない世界で結婚していて、ひめやかに貞操を守りつづけているわけよ」
 蓬莱建介は、南原杉子のつくりごとであると見抜いた。仁科六郎は、みえない世界を、自分達のものだと信じた。ふと、南原杉子と視線があった時に、疲女はうなずいたのだ。
「まあ、お気の毒ね、ごめんなさい、私、いやな思いをおさせしたみたいだわ」
 仁科たか子は心から云った。
「いいえ、私、幸せよ」
 南原杉子は笑った。然し、阿難が泣きはじめた。
「お杉は案外ね」
 蓬莱和子は、わけがわからなかった。然しそれを口にだして疑問の言葉にすることは出来なかった。仁科たか子が居る。
「さあ、とにかく、もっとのまなけりゃ」
 蓬莱建介が云った。南原杉子は、元気よくグラスをつき出した。
 ――南原杉子。私と、蓬莱建介と蓬莱和子の三角の線。私と仁科六郎と蓬莱和子の三角の線。私と、仁科六郎と蓬莱建介の三角の線。私は、重なりあった三つの三角の線を断ち切って。仁科六郎と阿難の線だけを存続させようとしたのだわ。だけど、あらたに、三角の線が出来てしまった。仁科たか子があらわれたのだから――
 ――阿難は絶望――
 ――いいえ、仁科六郎の愛を信じなさい――
 仁科夫妻はむつまじかった。それだけで、仁科六郎と阿難の世界はぐらつきはしないのだが、阿難の脳裡に、色の白い細おもての仁科たか子が明確に残るものに違いないのだと、南原杉子は考えた。
「お杉って人は、仲々自分のことを云わないのね。ねえあなた。今日は、お杉の告白の一部分をきいたわけだけど、もっと何かありそうよ。お杉の性格は疑いぶかいのね。私なんか信用されてないみたいね」
 蓬莱和子は、夫建介と南原杉子を交互にみる。
「じゃあ、何でもべらべら喋ったら、それが信用している証拠になりますの」
 南原杉子は、にこやかに云う。
「まあまあ何でもいいさ」と蓬莱建介。
「いいことないわよ。私は、お杉がすきだから、お杉のために一肌ぬごうっていう気なんですもの」
「僕のために一肌ぬいでくれたらどうだい」
 蓬莱建介は、冗談まじりに蓬莱和子の肩をたたく。
「南原さん、御かわいそうよ。昔のこと思い出されて」
 その時、南原杉子に同情の言葉をよせたのは、仁科たか子である。南原杉子は黙ってうなずかねばならなかった。
 ――何ということだろう。仁科たか子に同情されたのだ。阿難がここで、仁科六郎を愛してますと云って、仁科たか子から嘲笑か、にくしみなうけた方が同情されるよりましだわ――
 ――もう駄目、何もかも駄目。阿難は何も云えないわ――
 蓬莱和子は、真珠をいじりながら、自分が想像していたような集りのふんいきにならなかったことに気付いて腹立たしかった。彼女は、夫建介と親密な関係を、南原杉子にみせるつもりだったのだ。ところが、蓬莱建介は、何かというと南原杉子をかばい、その上、仁科たか子までが。
「ねえ、六ちゃん。あなたはお杉がいつも仮面をかぶっているらしいことをどうも思わない?」
 遂に、彼女は最期の一人に同意を得ようとした。
「僕、わかりませんよ。そんなこと。それより、うたでもうたってくださいよ」
 仁科六郎は、蓬莱和子の得意とする歌をうたわすことが、この場合、最も座が白けないで済むと思ったのだ。案の定、彼女ははれやかにピアノの傍へちかづいた。仁科六郎は、無言でピアノをひけと阿難に命じた。
「私、伴奏しますわ」
「あら、お杉、ピアノひけるの」
「南原女史は何でも屋なんだね」
 蓬莱和子は、楽譜をめくりながら、一番むずかしそうな伴奏のを選んだ。
「初見でおひきになれる?」
「ええ。エルケニッヒね」
 南原杉子は苦笑した。そして、ピアノのキイに手をのせたかと思うと、はやい三連音符をならしはじめた。
 仁科六郎はほっとした。黙って居られることが、そして、南原杉子が自分に背をむけていることが救いであった。
 ――阿難、僕達は何てかなしい対面をしたのだろう――
 彼は、蓬莱和子の歌声などきいていなかった。そして、両手をくんでじっとその手をみていた。
 蓬莱建介もきいていない。彼は、妻和子の不穏を感じて、この集りが終る時までに、何とかして彼女の機嫌をとらなくてはと思っていた。
 蓬莱和子は、時折楽譜をみながらピアノの傍で自分の声に酔っていた。
 ――私は、何といったって今宵の中心人物なんだわ。お杉だってそれに気付いて、内心私に嫉妬しているのだわ。あら、夫が私をみて頬笑んだわ。やっぱり私の美貌が得意なんだろう――
 南原杉子は、ミスがないようにと忠実にひいた。
 曲が終った時、相手をしたのは仁科たか子であった。彼女は、拍手をしなければならないものと、曲がはじまった時から待機の姿勢でいたのだ。
「音が狂ってますわ」
 南原杉子は、三つ四つ、キイをたたいた。
「お杉ったら、どうしてピアノひけるって云わなかったの」
 南原杉子は苦笑した。
「お杉、何かひきなさいよ」
「え、ひきますわ」
 南原杉子は、そっけなく答えた。そして、しばらく静かにピアノをみつめていた。四人の男女は耳をそばだてた。
 ――阿難、かわいそうな阿難。あなたの愛している人は幸せな家庭をもっている人なのよ。たか子さんって人は大人しいいい方なのよ。阿難。あなた嫉妬してはいけないわよ。阿難、泣かないで。あなたの愛している人が苦しんではいけないからね――
 彼女はひきはじめた。彼女の作曲である。テーマは出来ていた。彼女は、ひきながらヴァリエーションをつけてゆく。もう彼女の背後には、仁科六郎一人しか存在していない。弾いているのは阿難。
 ――お杉がピアノを弾く。お杉がうたをうたう。夫の前でうたったのだ。お杉と自分。若さ。才能。いや、私の方が。私は蓬莱建介の妻。妻の資格。お杉にはそれがないのだ。お杉はどんなにすぐれていても老嬢なんだわ――
 蓬莱和子は、老嬢南原杉子を軽蔑した。軽蔑出来たのは、蓬莱建介の存在のおかげであるのだが。
 蓬莱建介は、南原杉子の、立体的な側面の姿を眺めていた。だが、傍に、妻和子が居ることを心得ていた。だから、時折、妻和子の方をみることを忘れなかった。蓬莱和子の真珠の光沢は、彼に、南原杉子とのこれから先の関係を肯定しているようであった。
 仁科たか子は、こんなにはやくいろいろの音の連続を出せるのかと、不思議に思った。
 ――ああ、阿難。ピアノをやめて、僕は狂いそうだ。阿難の感覚。阿難の作曲。阿難の音。だが、やっぱりつづけてくれ、いつまでも、僕は狂いそうだ――
 仁科六郎は目を閉じていた。
 高音部のトレモロ、マイナーのアルペジオ。
 ――阿難。阿難――
 阿難は、頬をつたって流れる涙を感じた。最期の三つのハーモニー。
「阿難」
 突然。それは、仁科六郎の声であった。本当の声であった。阿難は、ピアノにうつる彼の姿をみた。彼女は、キイに手をおいたまま、ペダルもきらずにうなだれた。
 仁科たか子も、蓬莱夫妻も、仁科六郎のさけびをきき、彼の表情を目撃した。誰も何一言云わない。つったっている仁科六郎を、唖然として見上げている。彼の、短いさけびを理解することがどうして出来よう。
 ふいに、金茶色の布がきらめいた。阿難は、まっすぐドアの方をみたまま、部屋を小走りによこぎった。涙がひかっていた。

「魔性なんだよ。彼女には魔性があるんだよ。たか子さん、あなたの御主人は、魔につかれたんですよ。さあ。飲みなおしだ」
 蓬莱建介は、やっとそれだけのことを云うことが出来たのだ。彼にとって、蓬莱氏と、蓬莱夫人が無事に終ったことが一まず安心にちがいなかった。
「あなた、どうなさったの」
 たか子は、共に不安なまなざしをおくった。仁科六郎は、悄然と椅子にこしをおろした。その時、蓬莱和子は、傍のグラスを一息にのむと、ヒステリックな笑い声をたてた。

     十三

 ――阿難は生きてゆけません。一生、こんな大きな幸福の、華々しい瞬間は、もうございませんもの。阿難、とあなたの声。阿難の幸福の瞬間、華々しい瞬間が――
                    〈昭和二十七年〉



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