久坂葉子「灰色の記憶」(02) (はいいろのきおく)

久坂葉子「灰色の記憶」(02)

     第一章

 男の子、女の子、そして次に生まれた赤ん坊は、澄子と名附けられた。まるまる太った、目鼻立の大きい赤ん坊は、自分の名前が、自分と似つかわしくないと思ったのか、片言葉ながら、自分をボビと呼び、それに従って、大人たちも、ボビチャマとよんだ。右手のおや指をいつも口からはなさないでいる三歳の私が、そのボビであった。
 明治の御代に、一躍立身出世をした薩摩商人の血と、小さな領地を治めていた貧乏貴族の血とが、私の体をこしらえあげた。
 私の父は、その頃、曽祖父の創業した、工業会社の重役をしており、私の母は、上品なきれい好きの江戸っ子であったから、私の襁褓《おむつ》は常に清潔でさらさらしていたらしい。それに、外出好きの母であったから、私に一人、つきっきりの乳母が居り、一日中面倒をみてくれていたのだから、私の涎掛《よだれかけ》も、きれいな縫取のあるのが、たえずかえられていたにちがいない。乳母は太っており真白の肌をしていた。両方の乳房が重たく垂れており、私は、右手の指をしゃぶりながら、その柔かいあたたかい乳房を左手でいじくりまわしていた。夜、眠る時も、父母は私の傍に居らず、乳母の両乳の間に顔を押しつけて眠っていた。

 その頃、生まれつきよわかった兄のために、紀州の海岸に別荘を借りた。兄、姉、私と、すぐ後に生まれた弟と、乳母と女中が海岸の別荘に生活するようになった。真白で広い浜辺の端に、高い石がけの平家があり、私はそこで波の音を四六時中きいていた。ひる間はその波音が退屈しのぎであり、いろんな夢を思い起させたりしたが、夜中にふと目をさますと、それは恐しい魔物の声のように思えた。そんな時、私はしくしくと泣き出して、乳母の乳房に耳を押しつけた。
 こまかい白い砂地は、私を無性によろこばせた。汀をぺたぺた素足で歩く。と、すぐにその足あとは波に消されてしまう。どんなにゆっくり、じわっと足あとをつけても、すぐにそれはあとかたなく波のためにさらわれてしまう。今日こそは、波にさらわれまいとし、その小さな念願をくりかえしながら、次第に汀で遊ぶことが退屈になり、私はお魚や、貝がらをあつめたり、磯の間に、ぶきみな形の小石をひろったりした。それは大切に、廊下に並べられたり、お菓子の空箱にしまいこまれたりした。
 毎朝、五時に、ほら貝が鳴る。私達は女中の手にぶらさがって、ほら貝の鳴っているところへゆく。漁師が海から帰って来て、獲物のせり市があるのだ。私は生臭いその空気を好んでいた。大きな台があって、其処に、がらがらした声のおっさん達が、竹べらにチョークで何やら記して伏せて置いたり、ひらいたりしている。私は、荒っぽいその中に、びくびく動いているおさかなを、別に同情もしないでみていた。真赤な血が垂れる。自分の爪のような鱗がとぶ。私の殊に好きなさかなは、蛸であった。必ず、その丸く吸いつくところへ手をもってゆき、小さな指で、強くひっぱられることに興味を抱いた。たくさんの穴へ一本一本の指をいちいち吸いつかせる。そうしているうちに、邪魔だとしかられる。しかし太いお腹に毛糸であんだぶあつい腹巻をして、黒い長ぐつをはせた漁師達に、私は肉親以上のしたしみを抱いていた。
 毎日、新しいおさかなを、あれがいい、これが好きだと選んで持ってかえる。それが、朝の仕事の一つであった。家へかえると、まめ粥が煮てある。このあたりの風習に従って、小さな豆の実と葉をかげ干しにしたものを、おかゆにまぜて煮くのだということは、後で知ったのであるが、それに、漬物と味噌汁とがきまって出される。小さな茶碗に、風船の絵がついていて、私はそれを大へんかわいがっていた。
 日中、畠でとんぼやかえるをつかまえることもした。指の間に、とんぼの羽をはさんで、両手一ぱいになると空たかく逃がしてやる。そして又くりかえす。勿論、私自身で、とんぼをつかまえることは出来ないから、田舎の少年や、おばさん達にとってもらい、私はわらぞうりをつっかけて、兄達にまじってたんぼ道を歩いた。
 親からはなれて寂しいとは少しも思わなかった。そうした田舎の人達の素朴な感情の中に、私は伸び伸びと育った。
 けれども、教育のためには、田舎の生活はプラスしないという親の意見で、大分、丈夫になった兄と共に、兄弟達は都会へひき戻された。海岸の別荘は、夏間だけ借りることになった。
 両親の許へかえって私は、その日から、厳しい躾を母から与えられた。私は急に臆病になり、怯《い》じけた性格になってしまった。他の兄弟は、割合すぐに都会の空気になじんで御行儀よくなったけれど、私はどうしても田舎の生活がこいしく、人や雑音の多いことが、嫌でたまらないでいた。母は私のイナカモンを恥かしがった。私は幼稚園へゆかされるようになった。大人の先生は母よりも厳しかった。お祈りをきらって、小さな部屋に監禁されたり、お庭へ放り出されたりした。私は、よく泣いたけれど、おしまいには、そうされることが、何か偉いもののように思われて、平気で、うすぐらい鍵のかかった小さな部屋の中で、おはじきやあやとりをしていたり、お庭の塀を登って、すぐ近い自分の家へ逃げかえって来たりした。すると母は私を倉の中へ押し込めた。私は、冷い床の上にすわって何時間もあやまらなかった。
 幼稚園が、あまりひどい折檻をするので、乳母は、私をかわいそうだと云い、母と口論して、遂に幼稚園をやめさせてもらった。母は私を放任してしまった。別に、母に対して甘える気持もなく、かえって放任されたことを私は喜んでいた。手あたり次第に本をみることも、三番目の私から出来るようになったのだ。廊下を走ることも私がやってのけた。はいったらいけないと云われている、父の書斎や客間にねそべることもした。元気をとりもどした私は、手あたり次第に事件を起すことを好んだ。その時分から、平凡な退屈な生活が堪えられない苦痛であったのだろうか。
 椅子の上に立ち上ってみたり、マントルピースの上の石像をさわってみたり、階段の手すりを持たないであがり降りしようとしたりした。けれども私は、粘りっこい根気がなかったから、出来ないとなるとすぐ又他のことに手をつけた。
 しかし斯うした生活は長くつづかなかった。というのは、私は大人をしん底からうらみ、決してだまされはしまいぞ、という警戒心が起ったからである。その日から、私は、むっつりとした陰気な子になってしまった。
 ある日、それはたしか晴れていただろう。母と女中の手にひかれて、K百貨店へはじめてお買物のお供をさせられた。私は珍らしげに、いろんな形や色をみた。母は何を買ったのかわからなかったが、そのうち私は、洋服地の売場へお供した。と、すぐ目の前に大きな人形がくるくるとまわっている。私はすっかりそれに魅了されて、その前にじっと棒立になっていた。女中が傍に居り、母は何やら又そこで買物をして戻って来たが、私はどうしてもマネキンからはなれようとしない。さあ、帰りましょうとうながされても、嫌、あれ持ってかえるの、と私は云い張ってきかない。しまいには泣き出して、あれがほしいんだ、とさけび通した。母はほとほと困ってしまうし、支配人も、もみ手をしながら、他の玩具を私に与えて機嫌をとろうとする。がどうしても、あの人形がほしいのだ、と私は云い張る。じゃ、マネキンの部屋へ連れて行ったらきっと恐しがっていやになるでしょう、と母は支配人にたのみ、私はそのうすぐらい部屋にはいりこんだ。そこには、首のちぎれたのや手足がバラバラになったのやら、婦人や子供やいろんな大きさのがならべてある。私は、大人たちの計画通りには行かなかった。ますますその不気味なボディーに愛着を感じ、今度は、その倉庫の、裸の婦人に抱きついてはなれない。その人形は、表情も固かったし、手足も細く、私の頬ぺたに、その足が冷たく感じたのだけれど、私は妙に好きでたまらない。母は、私の尋常でないことをおそらく恥じたのに違いない。泣きさけぶ私は、両手を母と女中にひっぱられながら無理に百貨店を出されてしまった。電車にのっても泣きやまない私に、
「東京の御土産にパパに買って来て頂きましょう」母は優しい声で云った。
 私はやっと確かに約束をさせて、丁度、一週間後に東京へ出張した父の帰りを指折かぞえて待った。父は一カ月に一度位、東京へ出張した。そして必ずお土産に兄弟に一冊ずつ本を買って来てくれた。私の弟は、私のために放任主義がつづいて、自由に何でもよんだりみたりすることが出来たので、四歳の時から本に親しんだ。彼が、天才あつかいにされ、神童呼ばわりにされたのも、私の恩恵であったのに、私はそのため随分ひけ目を感じてしまうことも度々起ったのだ。
 父を出むかえに、その頃、出張は必ずつばめの白線のある車で、日曜の朝着くことになっていたから、母と子供達は自動車で迎えに行った。私は、あの大きな人形と毎晩一しょに眠れるんだと、胸をときめかしながらプラットホームに待ちかまえていた。ところが、父は革鞄の他に何も持っていない。
「パパ、お人形は?」
 私は、おかえりあそばせ、も云わない先にきいた。
「この中だよ、お家へかえってから」
 私は屹度、手足がばらばらに取りはずし出来るようになっており、革鞄の中にきちんとはいっているのだろうと、踊る心を押えて家へ帰った。鞄をあけて、兄弟は中を一斉にのぞきこんだ。読書ぎらいの兄は、又本かと云うような顔付で包を受けとった。姉はきれいな英語の漫画の本であった。ところが私には、四角い箱がわたされた。それは、あのお人形の首だけしかはいっていない位の大きさであった。私はそれでも、わずかな希望でもって、その包みをほどいた。中にありふれた人形がよこたわっていた。小さな胸に、あんな憤りを感じたことはそれ迄なかった。私はいきなりその西洋人形の髪の毛をひっつかみ柱にぶっつけた。ママーと云ってその人形の頭は砕けた。
「パパは嘘おっしゃったの、ママも嘘おっしゃったの、ボビはわかったの、わかったの」
 その日から、私はもう大人達を信じなくなった。そして、自分の心の中をすっかり閉ざして誰にもみせないようにしてしまった。そして又大きな裸の人形と眠るゆめが、やぶれてしまったという失望と――その頃はもう、乳母の乳房をいじることは、弟の手前、出来なかったのである――大人に欺されたという腹いせとが、私を妙にこじれさせ、恐しいことには嘘をついてもよいのだという気持が、もこもこと起き上って来たのである。そしてその一種の嘘が、空想したり想像したりするたのしみをつくらせた。私は平気で自分をつくり話の主人公にして、弟や女中に話をしてきかせた。
「ねえ、きいて頂戴、ボビはねエ。遠い遠いお国で生まれたの、ママもパパもなかったのよ。たくさんの木があって、兎や鹿がボビを育てたのよ」
 私は毎日ちがった話をつくり出した。そうして出鱈目な話をしてみせることがどんなに愉快なことであるかを知った。小さな頭一ぱいに、お星様やお花畠をおもい、美しい人達――それがどうしてもあのマネキンの裸像であったのだ――が踊ったり歌ったりしていた。



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