久坂葉子「灰色の記憶」(04) (はいいろのきおく)

久坂葉子「灰色の記憶」(04)

     第二章

 二列に並んで、ハイ御挨拶。マワレ右。何度も何度もくりかえされる。私は背がひくかったので、前の方に並んでいた。朝、校庭で行われる朝会の時から、ランドセルを背負って校門を出る時間まで、今までの生活と違った窮屈さである。両手をあげて前へならえをする時、私のところでいつもゆがんだ。まっすぐに並ぶことがどうしても厭なのである。たやすいことに違いないのだが、私は、先生になおされるまできちんと並ぶことをしなかった。教場では他所見をする。御遊戯は型にはまった廻転や歩みばかりで面白くない。御行儀が悪いとしかられる。そんなことが続いて私はすっかり疲れてしまったのである。私はそこで嘘をつけばいいのだということを思い出した。
「センセ、オテテガイタイノ」
 私は手を揚げるべき時にそう云った。先生は私の云い分をすぐに通してくれた。とにかく、私は名門の子供であり、学校の名誉でもあったのであろう。
 家へかえると勉強などしないで、絵本をみたり、相変らずお話をつくってきかせたりした。御稽古ごとはどんどん進んだ。然し、私はやはり型にはまった形をつくることをいやがりだした。私はレコードをかけて勝手に振つけをしたり、でたらめなメロディをつくってピアノの練習曲はおさらいしなかった。しかし、その我儘な振舞がかえってよかったのである。大人達は、私を天才的だと云った。私は、ますます調子にのって来た。そうして二年生に昇った頃、私は、恐しいことをするようになった。盗みである。充分に鉛筆やノートをあてがわれ、不自由するものは何一つなかったのに、私は盗むことに非常な快楽を発見した。私は、机を並べていた友達にそのことを訴え、忽ち仲間にしてしまった。私とその女の子は、毎日のように、文房具屋へ遊びにゆき、きれいな麦わらの箱や、小さな飾り花をとって来た。盗むということが悪いとは知らなかった。堂々とそれをみせびらかして英雄気取になっていた。小さい木の机の中には、たくさんの分取品がたまった。私はそれを級友にわけ与えて喜んだ。盗むことの喜びは、試験をカンニングすることまでに延長した。悪友の隣の女の子は、宿題をきちんとして来て、私のために毎朝みせてくれたし、試験の時、盗み見しても寛容な精神でいてくれた。その時分、私は数字に対して大へんな恐怖を持ち出した。カケ算やワリ算がはじまるようになったのである。数字が、キイキイと音をたてて黒板にならべられる。私はどうしてもわからない。何故こうなるのだろうか。不思議さで一ぱいで、それが恐しさにかわったのである。サンジュツの時間です。となると私の胸はひしゃがれてしまう。わからないことはきらいなのである。そうして私は数字を憎むまでになった。しかし、とにかく、不正行為だとは知らないで、堂々と行うカンニングのおかげで私は悪い点をとらずにいた。好きな学課は、つづり方や図画であった。つづり方の時間には必ずのように、私のものがみなの前で披露され、私は得意になっていた。それに、よみ方は、小さい時からの、オハナシしましょうのおかげで、決して棒よみをせず、独特の節をつけてよんだりすることが、先生に高く買われた。だから学芸会だの、おひな祭りなどには、講堂の舞台上で活躍をした。年に二回あるピアノの会や、踊りの会で、私は自然舞台度胸が出来ており、そのことが、だんだん大人に対する警戒心をほどいてくれ、それに、英雄気取りが、私に大した自信をつけてくれたのか、こわいものなしの児童であった。大勢の友達が私の家へ遊びに来た。子供部屋におさまることがきらいな私は、立入禁ずの客間へみんなを連れこんで、クッションを投げとばしたりソファの上をとびこえたりした。それから好きなあそび場は、押し入れの中であった。ナフタリンのにおいと、ほこりっぽいわたのにおいが、私を喜ばせた。戸をぴったりしめこんで、真くらな中で、女の子を裸にさせたこともある。やはり、マネキンを抱いて眠りたい夢のつづきであったわけなのだ。英雄の命令通りに、大人しい女の子は短いスカートをとりはずした。私は、その白い乳くさい臭《にお》いのする肌をさわって、感傷的にさえなった。

 私の母は、私が学校から帰っても家にいることは殆どなかった。母の会だとか、友の会だとか、そんな会にはいっていて、絶えず外の用事ばかりをしていた。弟が肺炎で、生死の間を彷徨している時でさえ、家に居なかったということを、大きくなって乳母から度々きかされたことがある。楽天的な性質らしく、それに、お針をしたり、台所で食事の用事をすることを好まないのか、ついぞそういう母の姿をみたことがなかった。
「お家へかえったら、お母様、唯今かえりました、と云うのです」
 先生がそう云った時、私は大へん物悲しい表情をして、
「ママはおうちに居ないの」
 と訴えたことがあった。しかし、その物悲しい表情というのは、あきらかにジェスチャーであり、母に対する思慕など、少しもなかった。かえって家に居ない方が、自由に遊ぶことが出来てよいのである。
 母をますます愛さなくなった原因がその頃又一つ起った。二階の御納戸に、あけしめするのにギイーッとなるたんすがあり、その中に紺地にうさぎの絵のついた御召があった。母は時折それを着た。たしか冬頃着ていたようだから――というのは、その上に黒い羽織をはおると兎が一匹みえなくなるのを悲しく思っていたからである――袷だったのだろうか、それを私は大へん好んでいた。そうして、「ボビが大人になったら、そのおめしものいただくのよ」
 と姉や乳母に度々宣言した。母も、約束してくれていた。ところがいつの間にか、その着物がなくなってしまった。母はそれを着ないのである。そっと、ギイーツとたんすをあけてみたけれど、中にはいっていない。或日、私は母にたずねてみた。
「あああの御召もの、あれは、カザリイン先生がアメリカへ帰られる時さしあげたの」
 母は何気なくそう云った。カザリイン先生は幼稚園の園長さんだった。私は青い目と、うぶ毛の密生した赤白い皮膚を、その時非常に嫌悪していた。で、自分の最愛の着物を、きらいな先生にあげてしまった母をうらめしく思い、又ここで、約束を破った大人を、心の底から憎んだのである。然し、この母は、私の綴り方や、ピアノの音を好んでくれた。そして、母を好きだと思う時が、全くないものでもなかった。母は花が好きであったから、私を連れて、御客様をおまねきしたりする時は、殊に遠い温室のある花屋まで買いに行った。私は、むっとする強い花の香りに酔い心地になって、いろんな幻想を思い起した。そんな時、母は必ず、
「ボビ、どのお花好き」
 とたずね、私の撰んだ花を必ず買ってくれるのだ。私は、その時母をいい人だと思った。お花の束をもって帰り、きりこのガラスの瓶や、まがりくねった焼物の壺にその花をいれるのを傍でみていた。はさみをパチンパチンとならすのが、私の心を踊らせた。母は余った花を小さく切りそろえて、私に与えた。私はそれを、姉と二人の勉強部屋――私達は人形や本や切り抜きの絵のはってある西向の部屋を斯う呼んでいた――に飾った。

 その頃、私は冬になるとよく病気をした。廊下続きのおはなれには、常に誰か兄弟が寐ていたけれど、私のは一番長かったようだ。クリスマスの晩、ホテルの家族会へ、毎年招かれてゆくならわしになっていたのだが、私はその一週間前あたりから床につくことがさだめられているように、風邪や肺炎をおこした。クリスマスのために、外套から靴まで新調してもらうのだったけれど、それをきちんと枕許に置いて、
「もうじきクリスマスですよ、もうじきよくなりますよ」
 と、年とった医者のさしだす苦い薬をのまされた。ピンクのひらひらのついた洋服が、陰気な消毒くさい六畳の間にぶらさがっていたことをはっきり思い出す。そのピンクの年は、春まで寐ていたのだった。私の枕許には折紙でこしらえたくす玉が一ぱい天井からぶらさがっており、時折、その長い垂れさがった紙ひもが頬をなでた。私は又、寐ている間、看護婦の唄う流行歌を覚えた。母は、子供の前で絶対に歌ってならないと命じていたが、吸入器の掃除をしたり、枕許の整理をする時、自然にその白い上衣をきている彼女の口から、
「銀座の柳の下で……」
 がとび出すのだった。私は、すぐそれを覚えて、何かしら切ない気持にもなってみた。

 病気をしていない時は、相変らずの英雄生活がつづいた。支那事変や関西風水害が起った頃である。凡そ、自分以外のことには無関心であったから、その頃の子供達は兵隊さんや従軍看護婦に憧れはじめたものだが、私は一向に興味がなかった。日の丸の旗をかいて、停車場や波止場に送りに行ったこともあるが、戦争がきらいだということもなく、善悪の判断などわかる筈もなかった。――相変らず私は、ある種のスリルを満喫していた。
 そのうちに、踊りの稽古が、あまり派手好みでない母に、少々面倒にもなったのか、姉の脚も、すっかり人目にわからなくなったので、共々、私までやめさせられてしまった。ピアノは、やさしいソナタ位弾けるようになっていた。別に努力もせず気まぐれに弾いていた。
 しかし、ここにふたたび私の心はぴっしゃんこにつぶれてしまう時が来た。
 ある放課後、私は五人の女の児をひきつれて大きな御邸の前へ来た。庭にテニスコートがあり、そのあちら側にたくさんのけしの花が咲き乱れている。私はそれがほしくてたまらなかった。他の女の児達もほしがった。金網越しにそれを眺めていた。私は遂に決心して、ランドセルとおべんとう箱を、矢庭に道路へ投げすてると、金網を登りすばしこく越えはじめた。真剣な十の眼が、両手でしっかり金網をつかんだ間に並んでみえた。私は身がるに飛びこんだ。白いラインが殊更にくっきりと私の眼を射た。私は何か非常に重大な責務をあびているような感じがして、腰をかがめて走り出した。すぐに、けしのむらがりまで到達した。私は、紫や赤や白の花を、六本折った。私はふりかえってにっこと笑うと、その花束をしっかり握ってかけ戻った。その時、急に女の児達は走り去った。
「センセ、センセヤー」
 がたがたと鞄の中で筆箱がなった。子分は親分を捨てて行ったのだ。私は、もう金網を越える元気もなく悄然とたっていた。先生がやって来た。受持の長い顔の男の先生だった。
「何しているの」
 私は、つかんでいた花をみた。すると、二三枚しか花びらはついておらず、芯だけのこった丸坊主頭が六本ぐんなりなって手の中にあった。ふりかえった。白いラインに並行して、赤や紫のその花びらが点々と散っていた。私は突然泣き出した。先生は棒切れで、金網の戸の内側の鍵をたやすくあけて、私をひっぱり出した。



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