久坂葉子「灰色の記憶」(05) (はいいろのきおく)

久坂葉子「灰色の記憶」(05)

 今までのすべての悪事は露見した。私は、なかなか謝らなかった。
「ほしいからとったの」
 くりかえして私は云った。
「お母さんに云いつけます」
 この言葉で私はすっかりまいってしまい、平謝りに謝った。先生は、私の机の中にのこっていたものを一切文具屋に返しに行ってくれた。私はその日から、立派な金銀の甲冑をはがされた武士のようになってしまった。休み時間に遊ぶ気もなく、ひとりしょんぼりしていた。もう誰も私を尊敬してくれず、取りまいてもくれなかった。試験をみせてくれる友達も居なくなった。
 しかし、私は規則をまもらないことや、嘘をつくことは、やめられなかった。そのため私は教場でたびたびたたされた。頭の上に、重い謄写版の鑢をのせられ、一時間中黒板の横にたったこともあった。しかし別に恥しいとは思わなかったし、たたされながら、他のことをかんがえていた。
 その頃の私のたしなみの一つに、物を誇張して人に伝えることがあった。学校で生じた些細なことを、引伸しくりひろげて家の人達に話す。父や母は面白く或いは悲しげにそれをきく。自分の出来事でも、それを非常に強調するのであった。遠足に行って冒険をした。岩崖をはい上った。階段から飛び降りそこねて脚を打った。近所の子供が蛇を私の首にまきつけた。運動場を十ぺんかけまわった。こんなことが夕食の時もち出されて賑やかにした。
 私達のクラスで一番よく出来る男の子が、或る日、岩波の本をよんでいた。その年頃には、みな大きな形の絵入りの大きな活字の本ばかりよんでいるのに、彼一人、父の書斎に並んでいる、内容がいかにもむつかしいような岩波文庫をよんでいたのに対して、私は大きな尊敬をいだいた。しかしその本は私も今まで読んでいたアンデルセン童話集であったのだ。私は家へかえって、漱石の坊ちゃんだと父に告げた。何故、そんなことにわざわざ嘘をつくのか、その原因はわからないままに、大人が驚く姿を喜んだ。

 私の家は、子供四人に、女中が三人、乳母と両親の家族であり、部屋数も随分あったけれど、古びていて何かと不便であったので、大規模に改築することを、水害の翌年行うことになった。新しい木の柱の臭いや、うすいおが屑は、私に、海辺の毎日を思い起させた。大工さんと、船頭さんとの間に、何か似通った一つの魅力があった。毎日学校からかえると工事場へ行って邪魔にならないように仕事をみていた。二階に私と姉の部屋として新しく日本間と洋間が出来、離れの陰気な病室は、やはり二間つづきの兄の部屋になおされたし、応接間はすっかり壁紙が代わり、ベランダがつけられた。母は、私と姉の部屋に、きれいな飾り戸棚のついた箪笥を二つ並べてくれた。洋間の方には、椅子と机と本箱を新調してくれた。そして壁紙の撰択や、カーテンの布地は子供の好みにしてくれた。私は、うすねずみ色の地模様のかべ紙に、ピンクのカーテンをしたいと望んだ。姉はクリーム色に緑のカーテンをかけたいと云い張った。結局、壁はクリームになり、カーテンはピンクになり、デンキスタンドのシェードに、姉はみどり、私はうすねずみ色に花のとんだのを母は与えてくれた。急に何だか一人前になったような気がして、その当座はいくらか勉強に精出したようであった。しかし、算術の出来のわるさは、ずっとつづいて、それが、数学と呼びかえられるようになって、もっとひどくなったのである。
 改築の御祝いに、お友達を呼ぶことになった。その頃、東京から転校して来たアイノコが組《クラス》にいたが、私は彼女がとても好きになり――というのは、私の悪事を知らないという安心感があったのであろうか――たった一人彼女を家へ招いた。歯ぎれのよい江戸っ子で、派手なアメリカ風の気のきいた洋服をきており、顔立は西洋人形みたいだったから、母はこの娘が大へん気に入った。
 それに、ピアノが弾けて、然も、所望すると、さっさと弾く。無邪気な社交家であった。
「オバチャマ、コノオ洋服、アリーノママガネエエ、ミシンデヌッテクダサッタノオ」
 自分のことを、アリー、アリーと呼んでいた。何か、胸のあたりにスモックがたくさんしてあったようだった。私は母に、あれと同じものをこしらえてと何度も頼み、やっとこしらえてもらってそれを着たら、アリーのようになれるという想像をすっかりぶちこわし、鏡の前で着たっきり二度と手を通さなかった。アリーは色が白く、うぶ毛が密生していて、目が青かった。私はまゆ毛も、目も、顔色もくろかった。そうして、すんなりした長い脚のアリーに比べて、私はずんぐり太っちょだった。
「ゴキゲンヨウ」
 アリーのこの挨拶が又、母を喜ばせた。母は度々およびするようにと私によく云った。私はアリーの皮膚が好きだった。それはあのカザリイン先生と同じ系統でありながら、年寄と子供では日本人以上に大へんな違いがあることを知った。何となく柔い感じで、手をつないでいたり、肩をくんで歩いたりする時、私は胸をときめかした。私は、アリーを一度裸にしてみたいと思った。しかし、私はもう命令する勇気がなかった。
 十二月にはいると毎年の例で私はピアノの会に出た。優しい先生は四十人位の御弟子を持っていた。私と姉とが最も古参で、ダイヤベリイとかいう曲を――これは作曲家の名前かもしれない――二人最後に連弾した。それから私は、トオイシンホニイのコンダクターにもなった。ジングルベルを、タンバリンやカスタネットや大鼓やトライアングルで合奏した。白いタフタアの洋服の上に、その時は黒いベルベットのチョッキをつけて棒をふった。私は非常な名誉と自信を感じ、一段高いところで演奏者をヘイゲイ[#「ヘイゲイ」に傍点]した。たくさんの花束が送られた中に、アリーからのがあった。それが、ふじ色一色の温室咲きのスイトピーであった。蘭だとかばらだとか、高価な花とちがうのに、その一色だけが気に入って母も共にうれしがっていた。その日、アリーは長く垂らしたくり色の髪に、大きな白いリボンをつけていた。私達の年頃の人は、みんな、チョンチョンに髪を切っていたが、その日から私も髪をきらずにのばしはじめた。が、これにも失望してしまった。何故なら、私の髪はごわごわしていて、耳がかくれる頃までのばしたものだが、彼女のように、ふわっと波うってはいなかったのだ。そうして涙をのんでふたたびちょんぎってしまった。
 彼女は私をかわいがってくれた。言葉の影響か、私より年上に感じられた。彼女は、カトリックの信者であり、首からクルスを吊っていた。私は何故か、それだけは真似したいとは思わなかった。私の家が仏教であり、しかし仏壇はなく、――何故なら、本家に位牌が安置されておりそこで毎月法要がいとなまれていた――そのかわり、母が金光教信者であったから、二階の北の間は神様の部屋と呼ばれ、祭壇があった。そして、小さい時から、私達子供は神様のおかげで生きているとされ、毎朝毎夕、柏手をうっていた。で、カトリックというものがどんなものだか知らず、きっと幼稚園の時のように、長いお祈りがあるものと、はじめっから嫌悪していた。彼女はたびたび教会へ行くことを勧誘した。きれいなカードがもらえるとか、マザーがお菓子をくれるとか。けれど私は好きな彼女の云うことのうち、これだけは承知しなかった。アリーのおかげと例の悪事露見の影響か――悪事という言葉に私はいささかの反駁がないのではないけれど、衆目の認めるところそれはやはり悪事にちがいないのだ――私は大人しい子になった。遊び時間、アリーと私は校庭の隅っこでコチョコチョ話しこんだ。私のゆめみたいな話をアリーは喜んできいてくれた。彼女の糸切歯と目立って大きい頬のほくろを私は毎日あかず眺めていた。
 規則をみだすことは、アリーがきらっていた。だから私は、次第に従順な子供になって行った。教場でも大人しくなり、宿題もきちんとして来るようになった。家へかえると、本ばかりよんでいた。私は西洋のおとぎ話より、講談ものを好んだ。さむらいや、悪者やおひめ様や町人の娘が、血を流したり、殺されたりするのが面白かった。それから、永年愛読したのは、相馬御風の、一茶さんや、良寛さんや、西行さん、であり、西行法師は、清水次郎長と共に熱愛した。
 父は俳句を詠み、絵をたしなんだ。私や他の兄弟は、句会に列席して、俳句をつくったり、何かの紀念日には、掛軸や額の大きさの紙に、寄書をした。父は私を殊に愛してくれた。夕方、玄関のベルがなると、みんな一斉に出迎えにゆく。
「ボビは?」
 私が少しでもおくれてゆくと、父はそう問うていた。毎日出迎えに行くのが億劫で、一度、卵のからに、墨で顔をかき、五つ並べて玄関に置いていた。
「今日は、出迎えしないでいいの」
 そう云って、皆に出むかえを禁じた。父が帰って来て、それに立腹し、母は、私の似顔が上手だとほめてくれた。しかし、翌日からは、元通り、畳に手をついて御挨拶し、父の帽子を帽子掛に飛び上ってかけた。
 私は家中の人気者になっていた。おどけてみせることを好んでいた。その頃には、大人から裏切られたかなしさや、かなしさから生まれた警戒心は殆どほぐされていた。そして、ママコであるなど考えもしなくなっていた。私は、普通の少女になり、平凡な生徒になっていた。



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