久坂葉子「灰色の記憶」(07) (はいいろのきおく)

久坂葉子「灰色の記憶」(07)

 割合によい成績で進級し最上級生になった私は、初めて一しょの級になった首席を通している女の子に好意を持ちはじめた。帰る方向が一しょなので自然親しく口をきくようになり私は彼女の云うことすることを尊敬した。そして彼女と机を並べて勉強するようになった。彼女に近よろうと思うばかりに、よく学んだ。宿題や下しらべもやって来た。だいたい彼女は何でもよく出来たが、特別にずばぬけてよいものを持っては居なかった。細かい字をかちかちノートにかきつめ、地図や理科の絵をきわめて美しくかいていた。又、御裁縫や手工も上手かった。私は縫うことは全くきらいであり完成したものは殆どなかった。人がまっすぐ同じ縫目を連ねてゆくのが不思議にさえ思えた。私が縫うと、針目はよたよた逼いまわっており、間に袋が出来たり襞が出来たりした。糊付けの仕事でも、ふたと身をきっちり合せることが出来なかった。が、それでも、彼女に馬鹿にされないようにと、乳母にこっそり仕立ててもらって学校へ持って行ったりした。
 彼女に好意を持ったために、私は時々ほめてもらう位の優秀な学童になったが、一つだけ彼女から面倒なものをもらいうけた。それは、近眼である。授業中に彼女はそっと眼鏡を出して黒板の字を写した。私はそれが羨しくてたまらなかった。飴色の平凡なつるの眼鏡であったが、私はそれを掛ける時の恰好や、少し目を細めて遠方を凝視《みつ》める顔にひどく愛着を抱いた。彼女はノートに字をかく時、うつぶせになっているのかと思う位の姿勢で書いていた。私はそれを無理に真似をし、例の何でも御願いばかりする神様に、眼鏡がかけられますようにと祈ったりした。効果てき面、私は二カ月もたった一学期の終り頃、本ものの近視になってしまった。瞼の上がぷくっととび出し、遠くをみる時は、目と目の間に皺を入れなければならなくなった。私は待望の眼鏡をかってもらった。飴色のあたり前の型の眼鏡で、授業中、先生が黒板に字をかかれると、隣の彼女と共にそっと机の下へ手を入れて眼鏡をとり出し、しかめ面しながらそれを低い鼻の上へのせた。
 彼女の家は、立派な構えで、庭にテニスコートがあった。私や彼女の兄弟は其処でうまとびをしたり、ボール遊びをした。又、家の中もたくさんの間があり、彼女の部屋は、ほたるの絵の壁紙であった。小さなこけし人形や千代紙や、封筒や便箋を蒐集することが好きであった彼女は、それを少しずつ私にわけてくれた。学校に居ても、私と彼女は大変親しかった。しかしひとたび勉強のことになると、彼女はガリガリ虫で、私に一点負けたと云って口惜しがっていた。尤も、私が一点勝ったということはたった一度であり、常に私は勝を譲歩せねばならない破目にあった。[#「あった。」は底本では「あった」]

 丁度、いよいよ戦争らしい戦争になった頃である。防空頭巾やもんぺを作った。日本は非常な勝ち戦であり、私達は、フィリピンを真赤にぬり、南洋の小さい島まで地図の上に日章旗を記入することを命ぜられた。大詔奉戴日という記念日が毎月一回あり、その日は長い勅語を低頭してうかがった。入試にぜひ暗記せねばならないと云われたが、私は遂に二行位しか覚えられなかった。戦争の目的。戦争のために我々は何をすべきか。そんなことをくりかえして勉強した。必勝という声は幼い私達のはらわたに難なくひびきはいって、偉人といえば東条英機を挙げなければならなかった。私が実際の入試の折に、あなたの敬う人はと尋ねられ、清水次郎長と西行法師とこたえたことは、まことに女として戦時の現代女性として申し訳ないことだったかも知れぬ。
 父は専ら悲観説であった。戦争のことを決して容易く考えていなかった。私は学校で教えられる戦争必勝説に感化され、父の考えに歯がゆくも思った。ママパパがいけなくて、お父様、お母様、にしたのもその頃だった。先生にしかられ家中で改めることに決議したのだった。

 学校では毎朝、エイヤエイヤと号令かけながら冷水摩擦が行われた。全校の生徒が運動場にずらりと並んで上半身裸になり、手拭で皮膚を赤くした。小さい子供ならともかく、成熟しかかっている上級生徒のむきだしの恰好は如何に戦争中とは云え見よいものではなかったが殆ど強制的であり命令であった。そのために、お乳のつかみ合いをやったりする奇妙な遊びが流行した。
 しかし、戦争の影響は、私にとってそれ程大きくも重要でもなかった。未だ、批判力もなく解釈づけることも出来なかったわけだ。それより他に私に与えられたあるものがあった。私の心の動き方はすっかり変り、そしてほぼ、定められるようになったのだ。それは仏教というまるで今まで無関心な世界である。
 担任の先生が真宗の熱心な信者であった。私は忽然と南無阿弥陀仏に魅かれて行った。南無阿弥陀仏を唱えることによって、私は救われるのだ。私はいろんな苦難からのがれられるのだと思い込んだ。しかし、私は、私の行って来た盗みや、横暴なふるまいに対して懺悔しようとか、詫びようとかいう気持は少しも起らなかった。唯、私は、ひたすらに称号を唱え、ひそかに数珠を持つようになった。私の家の宗教の禅宗と、私がはいりかけた信仰の真宗とが、どんな立場であるかは全く未知であったから、私は法事で御寺へ詣っても、南無阿弥陀仏をとなえた。教理を知ろうとしても知る術もなく、又、本をよんでもわかる筈は勿論なかった。やさしく書いた名僧伝などをよむ位で、それも、その奇話や珍話にひかれたのかも知れない。尼僧の生活にあこがれを抱きはじめた。それまで、自分は大人になったら何になろうかなど、少しも考えていなかったから、私の最初の希望が、剃髪入門である。西行を愛していた私が、この時、更に深く彼に傾倒しはじめたのは云うまでもない。山家集を註釈づきでよみはじめた。もののあわれということが、はっきりつかめないままにも何かしら、悲しいのでもなく、落胆でもなく、しょげかえるものでもない。意味の深いものであるように、その輪郭をぼんやりながらつかみかけた。西行法師は私の心の中に随分根をおろした。そして私は真剣になって尼さんになろうと決心していた。
 私は人と没交渉になってしまった。隣の彼女も私とはなれた。一度、彼女の家へ遊びに行った折、私のあげたハンカチーフが、しわくちゃになって屑箱にほうりこまれてあるのを発見した。私は瞬間、非常に悲しい気持になったけれど、決して彼女を恨みもせず、それが必然的なように思えて自然彼女から遠のいてしまった。私は学業にはげむ時よりも、仏教のことをかんがえている時間の方が更に長く、ひとりぼっちになっても平気でさみしがらなかった。
 人からどんなに侮りをうけても嘲笑されても、一つのことを信じておれば心は常に平静であり動揺する気配さえ全くないことを私は自分に発見出来た。人は私を変り者だとか、てらっているだとか、傲慢だとかいろんな解釈をつけて非難した。数珠を腕にからませることは、みっともないとも母に云われた。しかし、かえって人々の反対が、私の信仰を強くしたのかも知れない。とにかく、半年の間は、私は迷うことさえしなかった。



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