久坂葉子「灰色の記憶」(08) (はいいろのきおく)

久坂葉子「灰色の記憶」(08)

     第四章

 卒業式が来た。感傷的な別れの歌の旋律や、読み上げられる言葉などに、私のまわりの女の子はしくしくと泣き出した。私は涙さえ忘れていた。人が別れたり或いは死んだりすることは当然の出来事のように思われていたのだ。小学校の門を出てすぐに入学試験が行われた。それは日だまりがまだ恋しい気候であった。私は近所の私立の学校へ受験した。姉と別の、程度の低い学校であった。山の中腹にある新しい建築の歴史の浅い学校であった。
 襞の多い長い紺色のスカートを着た女学生が、私達を順番に面接の部屋へ案内してくれた。彼女達は何故か不潔に見えた。前へかがみながらゆっくり歩く姿勢や、うすい膜をはった中から出すようなその音声や、やたらに止ピンの多い長い髪の毛などが、優美である筈なのに私には不潔なものだとしか思えなかった。口答試問ばかりで四つの部屋があり、第一の部屋が、校長の面接であった。
「何故、この学校を選びましたか」
 私は即座に近いからだと答えた。彼は苦笑した。めでたく入学出来てからきいたのであるが、近いから来たと云ったのは私一人で、それが随分無礼なことだったらしい。
 数学の問題は案の定間違えた。膝の上へ数字を指でかきながらやっと云いなおして、よろしいと云われた。後はだいたい出来たようであった。
 合格発表もみにゆかなかった。落ちる不安は全くなかったからである。四月になって手提げカバンを持ち家から十分とかからない女学校へ毎日通い出した。朝、私は皆が登校する二時間前に学校へ来ていた。ぞろぞろ並んで歩くことは非常な苦痛であったからだ。そうして、しんとした教室へ鞄を置くと一段と高いところにある運動場へのぼり、朝礼台に寐そべって、街をみおろした。つまりそれは健康な習慣であったのだ。私は、強い信念や高い誇を更に増すことが出来た。広い場所に一人で、乱雑な街を大手ひろげて抱くことが、私にとって又新しく起った英雄的な喜びであった。しかし、その男性のような強がりな気持と、数珠を持ち阿弥陀にすがる気持とが、両極から私をしめつけて来て苦しみ出しはじめたのはまもない頃であった。丁度、盗難事件が起り、朝はやく来ることを禁じられるようになったので、私の習慣はなくされ、したがってだんだん片一方の極へ自分を動かせるようにもなった。
 私は友達を得ることは出来なかった。私立のこの学校のモットーは、しとやかに、さわやかに、ということであったから、まことに静かな女性達ばかりが私の附近に居るような気がして親しめなかった。別に友達がほしいとも思わなかったし、かえって、孤独であることが私の持つ第一に挙げられるべき個性のように思っていた。私は入学早々幹事になった。免状をもらって一年間号令をかける役を仰せつかった。朝礼では先頭にたっておらねばならなかった。私の声は低音で響きがあったから他の級長より目立って号令らしい号令であった。私にとってこの有難い役目で唯一つ迷惑なことは人数をかぞえることであった。朝、笛がなると整列させて、組の出席人員と、欠席人員を報告せねばならなかった。副級長と二人で後の方まで数えてゆく。私はどうしても、一、二三四……で二倍する――二列縦隊であるから――計算が出来ず、チューチュータコカイナ、そして左指一本折り、又、チューチュータコカイナで二本目を折り重ねてかぞえなければわからなかった。それに、在籍人員から出席人員をマイナスすることが容易じゃなく、報告する前に数秒かかって口の中でくりかえし計算し、電車の事故などで遅刻者が多い時など、どうしても副級長に計算してもらわねばならなかった。私の数学に対する頭脳は、小学校三年程度であった。戦争が激しくなるにつれてすっかり女学校も軍隊式になって来、号令やら直立不動やら、このしとやかである女学生もいささかすさんでは来ていた。私は一分として動かずにたっていることが苦しくてそのためたびたびしかられた。又、歩調をとって歩くことも大儀であったから、教練(軍人が来て、鉄砲の打ち方などならう必習時間があった)や体操の時間には列外へ出されたり居残りさされたりして何度も何度もやりなおしを命ぜられた。幹事たる資格は全くないようであるが、私は責任感だけは人一倍強く、いさぎよい位に、罪を一人で背負うことは平気であった。ここが、級友や教師に買われたのかも知れない。
 その頃は防空壕を掘ったり、土をはこんだり、畠でいもをこしらえたり、正式の教室内の授業より、作業の方が週に何時間も多く、戦時でやむないとはいえ非常な労働であった。私はよく働いた。名誉ある役目がら、しなければならなかったし、信仰の精神が、働くことの喜びを私に強制したのかもしれない。数珠を右腕にまく私は、教師や生徒から変人あつかいをうけていた。それに私は口のまわりにひげが生え出していた。母は幼い頃から子供の顔をそらないように床屋に命じていたので(私達は月に一回、床屋が出張して来て日のあたるヴェランダで、消毒のにおいのするヴァリカンを首すじにあてられることを習慣としていた)うぶ毛が顔中密生していたのだが、私のは殊に濃く、それが女学校へ入った頃から目立って来ていたのだった。まゆ毛は左右太く大きく真中で堂々と連結しており、上脣のまわりのは波うつ程であったのだ。同級生から笑われた。何故そらないのかと云われた。私は、その理由からも、かわった人だ、と思われた。私はこっそり父の安全カミソリで、眉毛と口のまわりの毛をそり落した。まゆ毛はかたちんばになり、猶更わらわれた。カミソリの効果は逆であり、ますます濃い毛がニョキニョキと生え、私は遂に剃っても剃っても追いつかずに断念してしまう気持になった。そして髪の毛さえ手入れしなくなった。三つ編みにしたり、おさげにしたり、肩のへんでゆらゆらさせることが面倒で、朝起きても櫛を使うことは滅多になかった。ガシャッと大きなピン一つでとめて、後からみればまるで嵐が起っているように見えるらしかった。
 もんぺをはいて防空鞄をさげ、防空頭巾やゲートルや三角巾や乾飯をその中へつめて毎日持ち歩いた。未だ国土来襲は殆どなく、夏の間は、近くの海岸へ泳ぎに行ったり山登りをしたりすることが出来た。顔や手足は真黒になり、私の身体は健康であったけれど、秋になる頃から、私の持続していた南無阿弥陀仏の信仰があまりにもたやすすぎ、かえってそれが不安になりはじめた。私はもっと苦しまねばならない、もっとこらしめを受けねば救われないと思い始めた。称号を唱えながら唱えている自分がはっきりした存在になり、没我の境地にはいれなくなった。私は私を意識することが、私と仏の距離を遠くした。私は禅の本にふれてみた。菩提寺の和尚に話をきいた。大乗か小乗か、自力か他力か、私はこの岐路で相当考えなおしはじめた。心の平和は失われていた。しかし私の年齢の頭脳で、はっきりした確信をつかむことは不可能であった。私は気分をその迷いの中から他の方向へ転じさせた。絵を画くことであった。父と共に南画を習いはじめ、仏画や風景をやたらにかきなぐりながら、そこに一つの宗教的な平静さを見出すことが出来た。しかし、数珠だけはなす気にならなかった。東洋的な感覚に魅かれて行った私は、ピアノを弾くことを止してしまった。人の作曲したものを、どんな感情で作ったかもわからずに、自分がそれを弾くことは馬鹿げているような気さえした。母に泣きつかれ、先生に懇願されたが、近所の人達の口がうるさいという理由にして、――鳴物禁止時代になっていた――その代り、お茶とお花とを絵と共に習いはじめた。お茶は性に合わず、同じことをくりかえしで縛られるのに嫌気がさし、お花は、その師匠は進歩的な人で、自分勝手に活けてみることをさせてくれたので、絵と共に長くつづいた。創作することは面白かった。盛物と云って、野菜や果物をもりあわせることは非常にたのしみなことであった。私は、山でひろった木の根や、石ころを並べたりして、毎日のように床の間のふんいきを変えた。
 戦争はいよいよはげしくなった。体の病弱な姉は休学して、三つ県を越した南の小さな島へ療養にゆき、つづいて弟も疎開したが私は居残って女学校へ通っていた。母は度々その島と往復し、魚や米を土産に持ってかえった。乳母は姉達についてその島へいったっきりであった。工場へ出勤している兄と、一人になった女中と、国民服をきて丸坊主になった父と、簡素な生活になっていた。ごたごたしたうちに進級し、私はひきつづき幹事を命令された。その上、家が学校の近所である理由から、学校を守るために帰宅した後でも警報が鳴れば登校し、たくさんの役合を仰せつかるようになり、自習する暇も、考える時さえ縮められていった。戦争、戦争、そのことが一時も頭をさらず絶えず神経がピリピリしていた。父は二三年前より喘息が発病し、彼岸の頃になると決ったように起り、戦争や会社の任務の影響でそれがだんだんひどくなって来ていた。――父はこの戦争に対して非常に悲観的であった。
 凡そ自分の感情を奔放に発揮することの出来ない時であり、女学生達は萎縮してしまっていた。私は少ない二三の友達と小説をよむことで小さな夢を持った。学校で小説を読むことは禁じられていたが、新聞紙でカバーし、休み時間や放課後ひそかによんだ。そして、恋愛ということに非常な関心を持ちはじめた。
 四月のまだうすら寒い頃であった。閑散とした本屋で、雑誌をぱらぱらめくりよみしていた時、私はある一頁の右上にある写真をみて、自分がひきずられてゆくような感じを抱いた。それは特攻隊で戦死をした海軍士官の写真であった。今までは壮烈な死を遂げた勇士の報道に、大した感動もなかったのに、偶然ここに見出したその人の写真に、戦争という意識を抜きにしてひきずられたのだった。彼と何処かで会ったことのあるような気がした私はその雑誌を買い、その頁を破った。そしてその記事は一行もよまないで、その写真をじっとみていた。たしかに会ったことがあるのだと信じるようになった。それは、私の心に描いていた男性の面影と同じものであった。白い手袋をはめたがっしりした手を握ったような感触まで仮想し、それを信じ始めた。妙な感情であった。私は彼に恋愛感情を抱いているのだと思い込んだ。幼い頃よりの、おかしな想像力と、悲劇を捏造したがる趣味とが、忽然と又出現したのだった。真暗にした応接間のソファの上で寐ころびながら、彼の名前を呼びつづけたりした。それに、その時分流行していたコックリさんに、私の愛している人は誰ですか、とおうかがいをたてたら、彼の名が指された。私はますます彼に対する変な恋愛を深めて行った。



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