久坂葉子「灰色の記憶」(09) (はいいろのきおく)

久坂葉子「灰色の記憶」(09)

 学校での労働はますばかりであった。日曜日も作業があり、馬糞を荷車につんで運んだり、畠仕事や防空用水の水汲みなどをやった。勉強の時間はわずかになり、英語は全くなくなってしまった。数学は相変らず出来が悪く、級長は看板か、と毎時間しかられた。裁縫もその通りで、どんなにきれいに縫ってみたいと思っても何度も何度もほどきなおしをせねばならなかった。
 しかし私は真面目な生徒として先生間にもてていた。役目がらの義務観念より仕方なく真面目さを装わなければならなかったというだけで、自分自身拘束された身動きとれぬ恰好があわれっぽいとも感じた。やはり、規律とか秩序が窮屈であった。以前のように、なに臆するところなく飛びまわりたいという気持は絶えずあったわけなのだ。しかしもうその頃、子供の領域を脱していたから、縦横無尽に動くことは出来ないのだという諦めも半分あった。
 私の隣の席に熱心なカトリック信者がいた。アリーよりももっと独断的な信仰の持主で、私をしきりにカトリックへとひっぱった。教会へゆく人は教会へゆく度に一人ずつ信者をふやす義務があるようにさかんに彼女は級友を勧誘していた。私は二三度数会へゆき、マザーと話をした。公教要理は滑稽だったし、神父の説教は矛盾していた。戦争中の宗教は政府からの弾圧があるのか云い度くないことを云わねばならず、云い度いことを黙っておらねばならない教会の立場であったのかもしれない。その頃だったか、もっとそれ以後だったかはっきりしないが、教会で選挙運動があった。神父が説教の半ばに、推薦演説をはじめたのである。これには全く顔負けしてしまった。私は、カトリックの教理をつかまないまでに教会行はやめてしまった。しかし、仏教の信仰もまた徹底しておらず、碧巌録や、歎異抄や、神の話をあれこれよんだが、勿論、解らないままであった。又精神修養の講話もききに行った。蟻や羽虫を気合いで仮死状態にすることも覚え、運動場で実演をみせたりした。
 疎開する者が増し、組の人員も目立って減って行った。夏すぎになると戦争は悪化してゆき、不安なサイレンを度々きかなければならなかった。授業は殆どと切れ、きまった時間にきまった仕事を仕上げるのが無理になって来た。
 ある日、警報下のことである。私は情報部員であったから、ラジオの傍で筆記していた。その日に限って、それがどんな動機もないのに私は自分の惨死姿を頭のすみに、うろうろ浮ばせた。三四年前、死ということをはじめて知った時、私は別に深刻にかんがえるだけの知識を持っていなかったし、自分が死に直面しているとは勿論思わないでいたのだが、この時は、何かせっぱつまったものを感じた。ラジオの報道はさっぱり耳にはいらない。決して死への恐怖ではない。唯、私が死ぬ、私は死ぬ、という三四年前よりもっと具体的な、死に対する衝動であった。私はじっとしておられない。私は死から逃れようとする本能的な感情が、突然、紙や鉛筆をうっちゃって表へとびだす行動に現われた。私は死に度くない。私は生きておりたい。死がおそろしいのではない。けれど私は自分の命を愛しているのだ。生徒達は壕にはいっていた。私は人の居ない運動場を走りぬけ山の方へ突進して行った。別に、山の方は弾丸が来ないからというような常識的な考えは持っていなかった。唯、じっとしておられない感情で走り出したのだ。高い山の崖下へ来た。走りつづけることは肉体的に不可能であった。笹むらへ身を投じた。私は眼を閉じてうつぶせになったまま、走り度い精神と、走ることが出来ない肉体との交錯を感じた。私は、人間が戦争のために不自然な死に方をすることに対して別に何も感じてはいなかった。唯、一人自分の死に対してだけ思いつめた。
 何時間そうやっていたのだろうか。私は考えながらうとうと眠りだした。私は手足を太い縄でしばられるゆめをみた。私は眠りながら数珠をひっぱった。手くびからはずれないで細いより糸はぷつんと切れた。こまかい玉がくさむらにころがった。私はそれがゆめなのか事実なのか判断つかぬままにうすらさむい夕刻まで気づかずにいた。
 学校では大騒ぎになったらしい。人員点呼をせねばならない人が居なくなったのだからすぐに捜索がはじめられたのだろう。私の名を呼ぶ声がきこえた。私はそれでもじっとしていた。崖下に女の体操の教師の姿がみえた。彼女は私をみつけた。私の防壁頭巾は真黒で朱色のひもがついているので殊に目立つのだった。
「まあ、どうしたというんです、一体」
 私は何も云わずに彼女の後に従った。
 私はその女教師から主任の手へまわされた。主任は、出っ歯のスパルタ式教育と自称するいかめしい男の歴史の教師であった。彼は、私の責任や義務を追求した。私はだまったまま彼の肩越しに暗くなる窓外をみていた。彼はいらいらして来て、矢継早に質問を浴びせかけた。私は更に無言のまま、叱られているとさえ思われない状態でいた。私は、右手と左手とを前で握りしめた。数珠はなかった。私ははっとした。
「その姿勢は何だ」
 彼は私の両手をつかみ両脚の側面へ、まっすぐ伸ばさせた。私は直立したまま口を開こうとしなかった。いきなり頬に強い刺戟を感じた。私はよろよろとなり思わず膝をついた。
「たてれ」
 私はたたなかった。痛いという表情をして涙までこぼしてみせた。説諭することはかまわないが、生徒に手をふれてはいけないという学校の規則があった。彼は反則して私を撲ったのだった。彼はそれに気がついたらしく五分位した時、いやどうも、と口の中でもぞもぞいうなり扉をガシャンとしめて出て行った。私はすぐに部屋をとび出して家へかえった。
 父の喘息に転地をすすめる人がいて一週間程前から、姉達の島へ父は母と共に養生に出かけて留守であり、女中が一人、広い家を守っていた。兄と二人、うすぐらい電灯の下で沈黙のまま食事をした。私は、その翌日から登校する気になれず、二三日無届けで家にごろごろしていたが、学校から調べが来るという情報が生徒よりはいったので、一週間欠席届を出して親達のいる小さな島へ旅立つことにした。女中は心配だと云った。私はふりきって、兄には無断のまま朝早く弁当と防空鞄をぶらさげて電車にのった。田舎まわりの電車に、二三度乗換えなければならなかった。しかも連絡しておらず、一時間近くも待合すこともあった。買出しの人で電車はぎっしりつまっており、ドアにぴったり胸を押しつけられたまま、百姓女の髪の毛のむれた臭いや、生臭い着物の臭気で呼吸するのも不愉快な状態を三時間もつづけねばならなかった。目を閉じて私はドアの横のたての手すりに手をかけていた。うつらうつらしていた時、私はふと自分の手の上に冷やっとした感触を瞬間的に感じ、つづいて又、その温度がだんだん暖まってゆきながら、強くかたいように感じて来た。私はうすく目を開けた。手であった。男の手であった。ごつごつした大きな黒い手で、私の手の上にしっかりその手は重ねられていた。私はその手から胸へ上体へと目を移し顔まで来た。戦闘帽をかぶった工員風の若い男であった。私は自分の手をその手の中から脱出させることを試みた。すると更に強い抵抗をもって握りしめられた。私はおそろしくなった。けれどもそのままじっとしていなけれはならなかった。私はその感触の中から次第に快いものを感じるようになった。私はふたたび目を閉じた。私は上体をその男の反対側にねじって手だけを彼の方にさし出しているような恰好で、次の乗換えの駅まで来た。その男も降りて何の感傷もなくさっさと違ったホームへ階段を降りて行った。
 小さな箱のガタガタの電車にまたのりかえて、今度はポンポン蒸気船に二時間近くゆられた。島や岬や入江の間を、油をながして船はすすんでゆく。都会風のたった一人の娘っ子を、田舎の学生や男達はじろじろとみる。私は巾一米半位の上甲板に寐ころんで、空と雲と風のにおいにひたっていた。のどかな秋の夕ぐれであり、時折、ぴしゃっとしぶきのあがるのをみながら、孤独だということのさみしさを一人前に知ったような心になって、頬に涙をつたわせたりした。私は両手をにぎりしめた。先刻の男の手が頭の中に蜘蛛のようにはびこっていた。私は急に不潔なものにふれたような気持になって、水の面へ精一杯はげしい唾をはいた。白いあぶくは船の後へ流れて行った。
 あたりがまっ暗になってしまった頃、こわれかかった汽笛が鳴った。目の前の島の船着場に小さなあかりがみえた。村の子供達が、手をふっている姿がだんだん大きくなって私を不思議そうにみる表情まではっきりわかって来た。私は肩に鞄をぶらさげて、ピチャピチャぬれている船着場にとび降りた。八十軒しかない村なので、姉達のところを子供にきくとすぐに私が下娘であることを知り、小声で、スミチャーンと呼んで私の荷物を持ち先立って案内してくれた。みんな姉の友達なのである。一人の十すぎの娘は、私の着ふるした洋服を仕立て直して着ていた。トシチャンが仕立ててくれたの。姉の名を親しげによんでいた。
 父は私の突然の来訪を不審がり何かかんかと質問を発した。母は、私がきっと肉親の情愛を慕って来たのだろうと勝手な解釈をしてよろこんだ。乳母は一人旅の私を驚いた。姉と弟は私を唯いらっしゃいと迎えた。
 私は自分の行動を反省してみた。私は責任ある自分の学校での位置をかんがえた。しかし、私は自分の感情に従うことをあたり前なのだと一時的な結論を下した。白米と魚のさしみを食べて私は旅の疲れにぐっすり眠り込んだ。
 翌朝目をさました私はこれからどうしようとも思わず、姉と弟と村の子供と散歩をした。私の中に、もう仏教的な安心感もなく、恋を恋したあの戦死者への想いも失せていた。私は宙にういているような自分に叱責を与えることもしなかった。戦争だとか、必勝の信念だとか、そんなものも私の中に存在しなかった。
 てんま船にのって向岸の海岸まで遊びに出た。姉は巧みに艫をこいで田舎の歌をうたった。私は姉や弟や父母に自分の静かでない心境が現れることをおそれ、ひたかくしにかくして頬笑んでいた。しかし、この島にいても私の気持は落つくことが出来なかった。肉親への虚偽の笑いは苦行であった。私は学校が五日間休みだからと云う理由にしていたのだが、三日目には帰ると云い出し、母と二人で神戸へ戻って来た。母はその翌々日に島へむかった。私は久しぶりで登校し、又もや主任教師に二時間たたされて説諭をたまわった。私は幹事をやめさせてくれと懇願した。然しそれはきき入れてもらえなかった。私はその日から、号令や伝達や作業にいそしまねばならなかった。粗食と疲労で肉体はげっそりしてしまい、その上、戦争のために、国家のためにという奉仕的な気持をすっかり失っていたことが余計体に影響し、私は作業中に度々卒中を起して休養室で寐なければならなかった。私の生命に対する強い愛着を、まるで捨ててしまえという自分以外の力。戦争や、その影響をうけた教育など。耳にきこえるもの、言葉、目でみるもの、文字。それらが、皆私の反対の位置であり、私を苦しめた。私はそこからうまれたひどい虚脱状態の後、私一個の生命に対して愛やあわれや深い意味ある感動を、全く失ってしまうことが、かえって、私の生命をひっぱっていてくれるように思えばよいのだと考えなおした。



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