久坂葉子「灰色の記憶」(11) (はいいろのきおく)

久坂葉子「灰色の記憶」(11)

 工場も被害をうけた。鉄道も三本ともストップしてしまった。私は、四里の道のりを、線路づたいに歩いてかえった。
 翌日から工場は仕事がなかった。電気がつかないし、仕事の原料がもう他の工場から送ってこないのであった。それに、毎日空襲で山へ避難せねばならなかったから、殊更、何をしに工場へ通うのやらわからなかった。毎日、通勤の生徒の数が減って行った。丁度、その頃、学校の建物の大半も焼けてしまっていた。私達は交替で焼跡整理に学校へ行った。赤くなった壁や釘のささった焼板や、ガラスの溶けたのをよりわけてその後を畠にした。極度の肉体的な労働は、もうその頃には、さほど苦にはならなかったが、働くことが無駄であるような気がした。何故なら、もうみんな死ぬ日が近づいているのにと考えたからだ。
 六月の夜半に大きな空襲があり、私達の住み馴れた生家はすっかり焼けてしまった。私は、自分の家に何の未練もなかった。其処にある思い出は、凡そ罪の重なりであり、不快な臭いの満ちた事件ばかりであったから。
 物干台へ出て、父と二人で市内の焼けてゆくものをみていた。それは全く壮観であった。ざあっという音と共に、殆ど飛ぶように階下へ降りた。もうあたりは火になっていた。足許で炸裂する焼夷弾の不気味な色や音。弟と女中と姉と私は、廊下を行ったり来たりした。母は祭壇の中の、みてはならないものとしてある金色の錦の袋をもっていた。父は悄然とたっていた。
「こわい、こわいよ!」
 泣きさけぶ弟はぴったり私に体をよせてふるえていた。やっとの思いで表の道路へ飛び出ることが出来た。消火することは全く不可能である。兄は工場の夜番で戻っていなかった。乳母は田舎に残っていた。私達は不思議に死に直面しながら死ぬのだとは思えないでいた。そして感傷にひたっている余裕さえなかった。道路には大勢の避難民が、ぞろぞろ歩いていた。私達も何処へという目的もなく歩き出した。何時間かたって空襲がおさまった時、父は会社へ出かけて行った。私達は同じ県下の、電車で四五十分はなれた田舎にいる祖母のところへ、その朝から歩いて昼すぎにやっとたどりついた。母と私はトラックにのって夕刻又神戸へ引かえした。焼土はまだくすぼっていた。父は執事や叔父達と其処で後始末の打合せをしていた。金庫が一つ横だおれになっていた。ピアノの鉄の棒が、ぐんにゃりまがって細い鉄線がぶつぶつ切れになっていたし、電蓄も、電蓄だと解らぬ位に残骸のみにくさを呈していた。本の頁が、風がふく毎に、ばらばらくずれて行った。私は何の感傷もなくそれ等の物体の不完全燃焼を眺めた。その日から、本家の邸に移り住むことになった。郊外の堂々とした石壁の家であり、本家の伯父は、祖母の疎開先へいれ代りに移った。
 そこで私達は、父の妹の未亡人と、その娘、息子と、遠い親類の焼出され家族七人と、混雑した生活を送るようになった。
 朝弁当を持って出ると、級友の罹災調べや、学校との連絡や、もうすっかりやけた工場は自然立消えになっていたので、その時の給料の配布や、日中はそんなことをしていそがしい時を送った。用務以外の時は、友達と話ばかりをしていた。親しい友達といっても、心の底から打ちとけて喋ることの出来ない私は、絶えず自分をポーズさせて本当のことは云わなかった。いり豆の鑵をそばに置いて、寝ころびながらsexの話に戦争も時代も忘却したこともある。これは悲しい話であった。何故なら、男性への接近は絶対に遮断されていたゆがめられた青春であったから、胸の中に燃え立つもののはけ口がなかったのだ。焼けっ原を見降しながら、山崖の草いきれの中で私達はゆめをみた。現実とは凡そかけはなれたものでしかなかった。日がくれると、私は仮屋へ戻った。計量機の上へ丼をのせ、ほとんど豆ばかりの御飯をついで、大勢の家族はいそいで食べた。日曜日は家の焼跡の整理をした。金庫の中の真珠はすっかり変色してしまっていた。ダイヤやプラチナはぜんぶ政府に提供していたから、真珠位が宝飾品として手許にのこっていたのに、それももう使うことも売ることも出来なくなっていた。父の大事にしていた陶器類は、二三無事であったが、それも、水をいれればもってしまう花瓶や茶碗であった。私の絵の印は、二三コ汚れたまま土の中から出て来た。それは喜ばしい発見であった。絵をかくことをはじめた。それから大勢の家族で句会もはじめた。梅雨の時分の毎夜であった。しかし又、二カ月して八月の六日の空襲でその邸も焼けてしまった。
 丁度、兄が入隊した晩であった。制服に日の丸の旗を斜にかけ、深刻な顔付で敬礼して駅頭にたった兄へ、私は肉親への愛情のきずなを感じた。兄弟の中で一番兄と気があっていたから両親以上に慕っていた。その夜は、何もしないですぐに床の中に入っていたのだが、空襲警報がなるまで起き上らないでいた。殆どそのしらせと同時に飛行機や焼夷弾の音を耳にした。私はベッドからころがり落ち、まるい蚊帳に足を奪われながら、寐まきの上にもんぺを着て階下の大勢の人のところへはしって降りた。その間、何分か数えられぬ位のあわただしさであった。そしてすぐに家を出た。立派な日本館と西洋館とが鍵形になった邸ではあったが、愛着などあろう筈はなく弾が落ちない前にもう逃げはじめた。一行十六人の群は、川堤を行ったり来たりして弾の落ちて来るのをさけた。あたりのお邸はどんどん燃え出し、今捨てて来た家も共に見事に炎上し始めた。山の方へ行っても弾はふって来る、南の方から火の手が揚がる。うろうろしながら、森林のある焼け残った家へ避難した。一時間位、ここで死ななければならないのだと覚悟をきめて、庭石にすわっていた。私の口からは御念仏が自然にもれた。母はのりとをあげていた。今度こそ焼け死ぬだろうと思った。私はみにくい死体を想像した。焼けこげになったもの、水ぶくれになったもの、裸のもの、衣服がちぎれて肉体にひっついているもの、私は既に多くの死体を目撃していた。霊魂を信じなければと私は思っていた。私は自分の死体の中から離れてゆくものを想像した。それは、まっ黒のたどんによく似たものであった。水晶のように光り輝いている魂ではなかった。私は必死になって念仏を唱えながら、そのたどんの黒さがうすらんで来、だんだん透明になるような気がして来た。私はひるまず、「ナンマンダブ」をとなえた。ふっと我にかえった時、あたりは静かになって来ていた。飛行機は去り、炸裂音も、その間隔がだんだん長くなって、思い出したように、あちこちで鋭い音を発し、わずかな震動が身体にひびいた。
 私は死からまぬがれたことを知った。私は念仏を中止した。その日、私達の家族はちりぢりになって二、三人ずつ人の家に泊った。私は体の節々の痛みを忘れてぐっすり眠りつづけた。
 翌日、やっと一軒の疎開後の空屋に父母姉妹と叔母家族と一しょに移り住んだ。七人の遠い親類は田舎の方へ別れて行った。空虚な生活がはじまった。一週間、言葉を発することも厭うようにお互に顔をみるだけでいた。姉も弟も従姉も病気になった。疲労と極度の恐怖から食事をすることも出来ない有様であった。ソ聯が反対側に加わり、原子爆弾が広島と長崎に落ち、そして敗戦の日が来た。十四日の晩に父は家族を集めてそのことを伝えた。私達は更に何も語らなかった。深い感動もなかった。私は、戦争が終ったということをそんなに喜びもしなかった。私の生命に青信号が与えられたかも知れないが、戦争にこじつけて、ある精神的な苦痛の忘却や逃避も容易に可能であったし、考えなければならない自己の行動をそのまま放って置くことを平気でしていたのが、急に、時間や心の余裕が生まれたので、それが、かなり自分自身をみつめることを強いたのだ。私は、それが決して喜びではなかった。かえって大きな苦痛であった。今まで少し考え少し苦しみ、それにはっきりとした解釈をつけないままに通して来た。戦争が、中途半端な結論しか私に持つことをゆるさなかった。仏教に対しても、死に対しても、つきつめるだけつきつめることは出来なかった。それは、案外、楽なことであった。私は、ここで自分が何を為すべきかを考えねばならなかった。
 私の父は銃殺されるかもしれないと云った。そして神経衰弱に罹ったように、絶えずいらいらしていた。確かに沈鬱な家庭であった。大豆をゴリゴリひいたり、道端の草をゆでたり、そんなこと以外はお互に何か考えているような表情で笑いもなく毎日を送った。
 一カ月して兄が帰り、そのことだけは皆喜んだ。私は暇な時間を嫌った。学校がはじまった。校長や主任教師の演説は耳に入らなかった。全くそれは滑稽なほどおろおろした宙に浮いた話であった。英語が復活し、焼けのこった講堂を四つに仕切って授業が行われた。然し、焼跡作業や、壕くずし、(一年前に血みどろになってこしらえたもの)や防空設備のいろいろな物体をこわすことが殆どの日中の時間をしめていた。
 選挙でもってふたたび幹事になった私は、仕方なくよく働かねばならなかった。私は数珠を持ち念仏を唱えていた。それは考えることをする前の空虚さを満たす努力でもあった。読書もするようになった。しかしそれは一向に頭にはいらなかった。学校の行きかえりの電車は大へんな混雑であり、窓から乗り降りすることが何度もあった。荒々しい感情が街にみなぎっていた。しかしその中に虚無的な香りもかなり強かった。私はぎゅうぎゅう体を押されながら、人の談話をかなしい気持できいていた。だんだん家庭内では落ちつきと静けさがただようようになった。父は公職追放されただけで、銃殺など懸念することはなかった。週に一度句会をやり、その日はたのしみの一つであった。又、その借家にピアノが置かれていた。私は楽譜なしに、その時その時だけのメロディをつくってたのしんだ。けれど二カ月位してその家の主が帰って来るというので、私達は会社の寮にしていたある御邸の部屋を間借りすることになった。もともと私達の家庭では親子の間でも感情を抑制する躾がほどこされているようであったから、親類と同居するようになってもさして気兼に感じないで生活出来た。目前にやって来る冬支度や、命日の食べ物のやりくりやらで秋の夜長はどんどん過ぎて行った。戦後日がたつにつれ、私は考えるようになって来た。自分の生活に目的がないことはさみしいことだと思った。当時、もう尼になり度いとは思わなくなっていた。何故なら私は非常に人間愛に渇え、人間を愛したいとばかり思うようになっていたのだ。人と人との接触の中に、私は喜びや生甲斐を発見するのだろうと考えた。誰かを愛して居り度いと思った。そして自分の愛情に応えてほしいとのぞんだ。私は兄の友達や、電車通学で会う若い人に気持を奪われてみたいと念じたけれど、誰もかも魅力はなかった。
 学校はだんだん学校らしくなって来た。女性同志の恋愛ごっこのようなものが急に流行しはじめた。リボンを頭につけたり、定期入の中に写真をしのばせたり、制服がそろわないので私服のゆるしがあるままに、色彩がだんだん華やかになって来た。私は女らしさに欠けており、又体裁をかまわないことを一種の誇のように思っていたから、相変らず戦争中の作業衣ともんぺを着て頭髪はもしゃくしゃにしていた。ところがそういった風貌が宝塚の男役のように女性から慕われた。同級生達から毎日のように、ピンクやブルーの封筒を渡され、涙っぽいつづけ字の手紙をよまされた。私は手紙をかく事を好んでいたのですぐ乱暴な字でノートの端くれに返事をかいた。それ等の女性に対して何ら興味はなかったものの、手紙をかくたのしみだけで大勢の人と交際しはじめた。私の学校での生活は目立って注目を浴びるようになった。私は少しずつ活気づいて来て幼い時からの倣慢不敵さがにょきにょきと表面にあらわれ始めた。そして事件をもてあそぶようになって来た。何か毎日自分の身辺に新しいかわったことをこしらえたいと思い、それが自分に不利有利を考えないで唯その事件を面白がった。しかし数珠と私ははなれないでいた。数珠を巻いている事は大した信仰でなくなっていたけれど、私ははなさないでいた。習慣的であり、腕時計のようなものであった。



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