久坂葉子「灰色の記憶」(16) (はいいろのきおく)

久坂葉子「灰色の記憶」(16)

     第八章

 突然、私は自分がいろいろなことに抵抗して生きていることを苦痛に思った。ある日、雨がかなり降っている午後であった。雨の日は来客が比校的少なくて受付は閑散であった。不要になった書類を裏がえして、いたずら書をしていた時のことである。殆ど突発的に私は自分の力がなくなってしまったことに気付いた。空虚な日常のように思えた。ロボットのような自分であると考えた。今まで逆流の中に身をささえて力強く給仕をしているとみせかけていたことが滑稽になって来た。わざわざ抵抗しなくてもよいものを。そうすることは自分からわざわざ苦痛を受けようとしていることなのだ。
 衝動的に、私は死への誘惑を感じた。分家氏への愛情も凡そ無駄なナンセンスなことである。姉への嫉妬――私は姉が自分の意志を通して、幸福(これはその時そう感じたにすぎないが)な結婚をしたことに対して無性に腹立しく思っていた。私には恋愛すら出来ない。人を愛しても私は愛されない。愛される資格のようなものは皆無である。姉は容姿も美しく、頭脳だってきびきびしている。それに、女らしさと女のする仕事を何でもやってのける。きちんと学校を卒業し、体だって丈夫になっている。それにどうだ。私ときたら学校も中途半端。給仕という職務にたずさわっており、しかも優しさだとか献身的な愛情をこれっぱかしも持っていない。――これすら馬鹿げ果てている。
 私は会社がひけるとあの未亡人の家を訪れた。
「おばさん、私は又死にたくなっちゃった。もう何もかもいや。私、本当に何にも執着ないの、欲求もないの、自分がみじめすぎるわ、これ以上生きてくことは。それは無駄ね。私もう働くこともいやだし、じっと静かに考えることもいや。自然を眺めてることだって出来ないし、人と接触して、愛したりすることも私には大儀なのよ。死んじまう。さっぱりするわ」
 彼女は、私の上っついた言葉をはくのに優しいまなざしでみまもっていてくれた。
「あなたのいいようになさいよ」
 彼女は私に煙草をすすめ、自分も長い煙管でゆるやかな煙をはいた。私は、ピアノの蓋を乱暴にあけると、ショパンの別れの曲を弾き出した。感傷じみた自分の行為が喜劇的に思われた。私は同じモチーフのくりかえしを何度もつづけながら
「全く複雑のようで簡単ね。死ぬ人の心理なんて。死ぬ動機だって一言で云いあらわせてよ。死にたいから死ぬの。何故って? 理窟づけられないわ。生理的よ。衝動的よ。泣く、笑う、死ぬ、みんな同じだわ。他愛のない所作でしょうよ」
 ピアノの音と自分のはき出す言葉とが、堪えられなくなると私はパタンと蓋をしめ、いそいで帰る支度をはじめた。
「おばさん、さよなら。きみちゃん、さよなら」
 きみちゃんとは私の級友。彼女は始めから終りまで黙っていた。
 オーヴァーの襟をたてて電車にのり、五分して電車を降り、薬屋へよった。「劇」とかいてある赤印の薬を四十錠買って家へ戻った。
 私はほがらかに一人おくれて食事を済ませた。狭い一人の部屋にはいると机の中から便箋を取り出した。最後の芝居がしたかった。私は架空の愛人への手紙をかいた。私の死因が失恋であるように自分をしたて上げた。いろんな、ラヴ・ストーリーの中から、気のきいた言葉を抽出しそれを羅列した。架空の愛人はいろんな人になった。ひんまがった口許や、脂ぎった肩や脊や、道づれの大きな瞳の学生や、自分の知っておらない顔までが、そのイリュージョンの中にあった。
 私は、さいころをふった。たった一つのさいころを、奇数が出たら、私は即座に薬をのもうと自分に云いきかせながらふってみた。一が出た。私はコップに水をくんで来て、薬全部をのんだ。私は、寐着にきかえる暇もなくふとんの上によこたわり、二枚のかけぶとんを首までかけた。その時、階下で電話の鈴がなった。まもなく、母が階下から声をかけた。
「ボビ。御電話よ」
「もう寐たと云って……」
 私は辛うじてそう云った。頭ががんがん鳴り、動悸ははげしく打った。体中がしびれてぐるぐるまわっているような気がした。すぐに私はもう何も感じなくなっていた。
 自殺するということも、死んでしまうことが出来なかったということも、これは全く喜劇であると考えたのは数日後であった。
 完全に五十時間の私を記憶していない。唯、人の話によると、七転八倒し、苦しみもがき、嘔吐し、自分の髪の毛をひっちぎり、よく云われる生きながらの地獄であったそうな。
 気がついた時、私の耳にラジオがきこえた。
「ヘ短調ね」
 私は口の中で呟いたようだったけれど、声には出なかった。脚も手も動かそうとしても動かない。傍に医者が私の表情をみまもっているのがぼんやりみえた。私は生きていることをうっすらと感じた。私は目を閉じてうす笑いを浮べた。その笑いは自嘲とも得心ともつかぬものであった。二三時間たったのであろうか。私は体全体のいたみを感じはじめた。片手をゆっくり動かし、もう一方の腕をさわった。皮膚の凸凹が注射の跡であることを知った。その手で肢体にもふれた。更に多くの凸凹にふれた。熱が相当たかかったし、頭痛や腰痛がかなり激しかった。目の上に、うすい膜がはられたように、みるものが全部灰色がかってみえた。ひっきりなしに、喉の渇きを感じ、水呑みの先に口をくわえたまま、冷い水をお腹まで通すことを続けた。
 それは夕方から晩にかけてであった。
 翌日、大部意識もはっきりして自分の存在が、ひどくあわれっぽく感じた。父母や兄弟の顔がみえた。私は字がみたかった。しかし机下にもって来てもらった新聞は、二重にも三重にもなって六号活字でさえ判読出来なかった。上体を起して窓の外をみた。風が、ぴりぴり窓ガラスにあたっている様と、桜の木や楓の葉が殆ど落ちている様とが目新しく映った。
 私の捏造した遺書は既によまれているとみえて、兄は私の恋愛を詮索しようとした。それに対して母は自分の唇を押え、そんな詮索はよせと兄に示した。私は、何故かくっくっと笑った。どうして、そんなことまで偽らねばならないのであったろうか。殊更周囲の誤解を招くようなことを自分から強いてみせつけるなどは、自分自身全く常識で判断しかねた。私は白い敷布と、枕下のガーベラ(これはあの未亡人の御見舞いだということを母からきいた)と自分の体とがまるで不調和のように感じた。
 数日後思ったのである。あの日、私が未亡人の家へ行きさえしなければ、又、電話さえかからねば――未亡人からの電話であった。――家中の人が翌朝まで私のことに気付かなかったに違いない。そうすれば私は死んでいたかも知れない。別に慄然としたわけではない。唯、こういう運命的な出来事がひどく滑稽に思われた。自殺することは、今までのあらゆる抵抗の最もちぢめられたしかも最も大きなものである筈なのに、抵抗する力を失ってよくも生への抵抗を試みたものだと自分で苦笑した。筆と硯を持ってこさし、ちり紙の上にいたずら書を始めたのはその又翌日であった。私は無感動であった。おめおめ生きかえった自分に恥辱を感じなかったし、こんな事件を起して申訳ないという殊勝な気持も起らなかった。空虚は、その事件前よりかなり私の心を占めていた。でたら目な文章を大きな文字で天井をむいたまま筆をすべらした。
 医者は毎日二回来て、私に注射した。年寄りの付添さんが午後にやって来て私の体をさすった。一週間もそうしてすぎた。私は杖をついて歩くことが出来るようになった。家族は私の死に対して何の口出しもしなかった。私の机の中は元のままで遺書だけ取り除いてあった。私はすぐに又死にたいという衝動は起らなかった。もうどうでもよく、生きることと同じように死ぬことさえ面倒に思われた。年があらたまってからも私はそんな気持を抱いたまま会社へ出ていた。分家氏にも既に毛頭の興味なく、他に新しく入社した若い子達に何ら心動かされなかった。私は唯、命ぜられたことをやるだけであった。以前程、給料袋をうれしいとも思わなかったし、人に物を与えて優越感も抱かなかった。給料をもらうことは当然のような気がし、人に与えることは自分をよくみせたいというへんな虚栄だと思ってやめてしまった。そのうちに、私の肉体が非常に疲れやすくなって来ていることに気付いた。朝の掃除が過度の労働に感じた。バケツを持って二三歩あるくと動悸がする。お盆の上に茶碗をのっけて客前へ運ぶことすら、腕に苦痛をおぼえた。私は階段からこけたり、薬鑵をひっくりがえしたり、何度も粗相をくりかえした。頭痛が絶えずしており、微熱すら伴っていた。医師の診断をうけた私は、急性の軽い胸部疾患であることを知った。私は会社を辞することを命ぜられた。三カ月は療養せねばならなかった。別に病気をおそれる気持もなかった。唯、斯うしろと云われたままに動くことが出来るようになっており、自分の意志表示をすることは面倒であった。いや意志すらなかったに違いない。



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送