久坂葉子「華々しき瞬間」(05) (はなばなしきしゅんかん)

久坂葉子「華々しき瞬間」(05)

     四

 谷山女史の関西の御弟子の発表会の数日前である。
 仁科六郎と、蓬莱和子と、南原杉子は二回目の三人会見をした。三週間目位だろうか。二人ずつではよく会っていた。仁科六郎と、南原杉子、つまり阿難の部分との関係は、いよいよ深くなっていた。然し、お互の孤立した生活をまもっていた。外泊はしない。仕事関係の時は、仕事関係の仁科と南原にすぎない。他人の眼のあるところでは、南原杉子の内部から完全に阿難は追いはらわれていた。蓬莱和子と南原杉子も女同志の親密を深めてゆくように外見ではみえていた。だが、南原杉子は、自分をさらけ出さなかった。たとえば、人生のこと、恋愛のこと、音楽のこと、蓬莱和子は相変らずの調子で喋りまくる。私、ノンモラルですの、夫以外の人と恋愛します。私、ヒューマニストですの、私、真実一路ですの。南原杉子はハアハアといってきく。たまに、あなたはなどときかれても、わかりませんわと云う。仮面の真実をたてにして、虚飾の真実を売ろうとしていること、南原杉子は苦笑していた。蓬莱和子は、南原杉子を案外深みのない女だと内心軽蔑した。だが、やはり、あなたは素晴しい人だとほめそやす。あなたに対しては真実なのよと云う。仁科六郎のことが度々話題にのぼった。いい方ですわと、南原杉子は云う。一度、蓬莱和子の視線と、南原杉子の視線が、仁科六郎のことで、しばらくぶつかったことがある。お互の心の中をよみとろうとしたのだ。蓬莱和子の年齢は、嫉妬を相手の女性の前であらわすことを、ひどくみにくいことだと解釈するまでに達していた。南原杉子は、あなたと仁科氏が親しいのをみて嫉けますわ、と云った。蓬莱和子はしばらく優越にひたった。
 仁科六郎と蓬莱和子と時たま会っていた。蓬莱和子は、南原杉子の出現によって、拍車をかけられたように仁科六郎に愛情をもった。蓬莱和子の真実の愛情である。仁科六郎は、蓬莱和子に、南原杉子を愛していると告げた。まあ嫉くわ、六ちゃん。でもあの人ほんといい人ね。それが蓬莱和子の答えであった。そして又、彼女は、仁科六郎に打ちあけられたことだけを南原杉子に告げたものだ。そこで南原杉子は百パーセント確信した。つまり、仁科六郎と蓬莱和子の関係である。有である。

 さて、三人の会見は音楽会評よりはじまった。蓬莱和子の案内したバーである。
「お杉、(いつからか蓬莱和子は斯うよびはじめていた)あなたは感覚のある方だから、音楽を御存知なくても批評でなしに感想おっしゃれますでしょう。きかせて頂けません」
「あら私、さっぱりわかりませんの、でもあなたの御声、素晴しいわね、いい趣味」
 蓬莱和子は、他の御弟子の批評を一くさりのべた。仁科六郎も口を出した。南原杉子は、にやにや笑いながらきいていた。
「六ちゃん。真中で何を黙ってるの、両手に花でいいじゃありませんか」
 蓬莱和子と、南原杉子は、音楽から遠のいてありふれた流行の話をしていた。
「洋服のことなんか僕わからない」
「あら、ごめんなさい。のけものにして、ねえ、六ちゃん。お杉の黒のスーツどう思う? ちっとも似合わないわね。お杉は、明るい色彩の方が似合ってよ」
 南原杉子は、黒がきこなしにくいものであることも、美人にしか似合わないことも承知している。しかし、二三日前、仁科六郎は、ひどく南原杉子のいでたちをほめたのである。
「僕はからきし色合のことわからないんだ」
「お杉が黒をきると澄ましすぎるわ」
 南原杉子は、にっと笑いながら、スーツの上着を脱いだ。真白い袖なしの絹のブラウス。誰でも、長い下着をきこんでいる季節なのだ。だから露わにのびのびした腕が、うす緑の電光のもとで、かなり刺戟的にみえて、しばらく、仁科六郎も蓬莱和子も黙っていた。南原杉子は、仁科六郎が、黒のいでたちをほめてくれなかったことに逆襲したのだ。
「さむくない。お若いのね」
「私、冬中、いつも上着の下はこうなのよ」
「活動的なお杉らしいわね」
 話がいり乱れて来た。随分のんだからである。スタンドをはなれて踊っている他の御客のあしもともおぼつかない。ジャズは甘さと哀愁をふくんで三人の間にもしのびこんで来た。
「お杉、ダンスできるの」
「ええ、あなたも?」
「私、しらない。六ちゃんと踊りなさいよ」
「女史、踊る?」
 南原杉子はたち上った。蓬莱和子はスタンドの中のマダムに例の饒舌開始の姿勢をとった。仁科六郎の踊りは全く下手の度を越していた。しかし、南原杉子は、その足のはこびに従順に踊った。蓬莱和子はふりむきもしない。けれども、背後を意識していることがはっきりわかる。南原杉子は左手を少しのばして仁科六郎の首筋のあたりにふれてみた。仁科六郎は右手に力をいれた。素早く唇と唇がふれ合った。
「六ちゃん。羨しいわね。お杉と踊れて」
 一曲終った時、ふりかえった蓬莱和子が、仁科六郎に片目をつぶって声をかけた。
「ママさん、私がリードするから踊って頂戴」
 南原杉子は、四十歳の蓬莱和子が突然はなやかにみえたので、彼女の肉体にふれてみたいと思ったのだ。
「まあ、うれしいわ。お杉。教えて下さる?」
 高い椅子からとび降りて来た蓬莱和子を、南原杉子は軽く抱いた。
「両手を私の肩にのせて、あしに力をいれないで、四拍子でしょう。曲にあわせて」
 南原杉子は、蓬莱和子のしなびた肉付きをウールのスカートの上から感じた。
「足をみないで」
 蓬莱和子は顔をあげた。目の下のたるみと、たるみがなす黒いくまと、額ぎわの細い皺とが、少しくずれかけた化粧を通して、はっきりあらわれているのを、南原杉子は観察した。しかし、彼女は、決して優越感を抱かなかった。何故なら、容貌は昔美しかったことを物語っているがすでに容色はおとろえている。肉体は貧弱で、感覚はまるで零。才智は浅薄。しかし、魅力があるからだ。妖気があるからだ。もてる女だと自負している蓬莱和子なのだ。一体、何ものが蓬莱和子を華美な存在にしているのだろう。南原杉子は、蓬莱和子に対して今までない興味が湧き上って来た。一曲終った。
「うれしかったわ。あなたと踊れて。うろおぼえに男足知っててよかったわ」
 南原杉子の態度は一変した。仁科六郎は、不可解な顔をした。それ程、急に南原杉子は、親しいやさしみのあるせりふを蓬莱和子に提供したのだ。
「あら、私こそ。これから度々踊って下さいね。あなたは素晴しい人ね、好きよ」
「わたくしも好きですわ。美しい人は好き」
 蓬莱和子は有頂天になったのだ。私は又一人もてたのだ[#「もてたのだ」に傍点]と。
「六ちゃん。やかないでね、女同士だからいいでしょう」
「おかしな人達だ」
 南原杉子は、スタンドの上のビールのこぼれたあとに、指を二三度たたいて、仁科六郎の前に三角形をかいた。そしてすぐ消してしまった。

 南原杉子は下宿の二階で、畳の上に又三角形をかいた。途端に彷彿と、阿難が浮んだ。
 ――阿難が居るんだわ。阿難は仁科六郎に恋をしているんだわ。阿難は、蓬莱和子を問題にしていないわ。阿難、お前は、南原杉子をどう思っているの?――
 阿難は答えなかった。



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