久坂葉子「華々しき瞬間」(07) (はなばなしきしゅんかん)

久坂葉子「華々しき瞬間」(07)

     六

 カレワラに、アネモネが一ぱい活き活きといけられてあった。南原杉子が、花屋におくりとどけさせたものである。
「おまえに花が贈られるとはね。どうも、おくった人の感覚を疑いたくなるよ」
「云ったわね、一度、会わせてあげるわ」
「素晴しい人だというけど、女なんてものは大方どれもおなじだよ」
「おんなじだったら、いい加減に浮気もあきたでしょう」
「大方同じだが、大方でないところを発見するのが面白いんだね、時にお前の方はどうだい?」
「ええ、あたしは相変らずですよ。あなたをのぞいた他の男には大いに興味がありますからね」
「まあせいぜいやったがいいね。だが、外泊が三日もつづいたとなりゃ、いくら、妻の浮気公認の亭主だと云っても、亭主としての義務上、一応心配してみるね、どこかで怪我か病気でもしてやしないかと思ってね。心中てなことはないと思うがね。やっぱり多少はお前とつながりがあるんだからね。ずるずるひもをたぐられて、俺に責任がかかって来るようなことなきにしもあらずだからね」
「御親切様ね。その位の御気持あるなら、せっせとかせいで下さいよ。月一万ぽっちじゃくらせませんよ」
「そりゃそうだ。だが浮気の話と別間題。俺の浮気は二時間で済むが、お前のは三日だからね」
 蓬莱和子とその夫建介は、暇なカレワラで無駄な云い合いをつづけている。蓬莱和子は、夫を知り抜いているつもりである。口では、浮気々々と云っていても、実は臆病で何一つ出来ないと思っている。実際のところは、建介は派手に女遊びをするが、一人の女性と長く関係したりすることを馬鹿馬鹿しく思っている。凡そ、愛情なんてものは、瞬間に感じるもので、瞬間が瞬間でなくなった時には、既に、アンニュイだと考える。その上、肉慾しかない。彼は又、妻に対して妻を一つの道具としか考えていない。道具は道具の性能がある筈、ところが妻は第一の性能の子供をつくることをしない。出来ないのだ。第二の性能、家の中を片付け、料理をつくって夫の帰りを待つことをしない。妻としては失格。だが、建介は妻の美貌を人から羨まれて来たことにのみ、妻の性能を認めてしまった。それも一昔。今は何も妻にはないのだが、しかし、戸籍上、夫婦であり、人の認める夫婦でもある。彼自身、それを認めているにすぎない。
「まあいいさ、お前は公園のベンチさね。共有物だよ」
 蓬莱和子が、ベンチと云われた侮辱に答えようとした時に、ドアがあいて、はれやかな南原杉子の声。
「御花届いて? ああ、あるわ、いいでしょう」
「まあ、お杉本当にありがとう。うれしいわ」
 蓬莱和子は椅子からたち上って南原杉子にちかづいた。
「花屋の前で、あんまりきれいだったもんで。ああ疲れた」
「おいそがしいのでしょうね。大部あたたかくなりましたわね」
 南原杉子は、自分達の方をみている男に気づいた。
「お杉。あたしのダンツクよ。さあさ。あなた、おまちかねの方よ」
 蓬莱和子は少し嫌味な笑い方をした。南原杉子は軽く頭をさげた後、
「ねえ、これ、あずかって下さんない? 私、ちょっとバタバタ出かけなきゃならないの」
 大きな風呂敷包にはじめて蓬莱和子は気がついた。何故なら、それまで南原杉子の容姿の観察にいそがしかったのだ。
「はいはい御預りしますわ。ああそうそう昨日六ちゃんのところへ泊ったのよ。奥様ってとてもかわいい方よ。仲がいいの、とっても」
 蓬莱和子は南原杉子の表情を探ったが、南原杉子は平然としていた。蓬莱和子は、少しがっかりしたのだ。だが、背後の夫に、昨夜のことをきこえがしに云ったことが面白く思えた。
「じゃあ私、失礼してよ。又来ますわ」
 蓬莱建介の方に目で挨拶をして、そそくさと出て行った南原杉子。その後。
「どうお」
「お前よりはずっといいね」
 蓬莱和子は別に腹をたてなかった。
「ねえ、あれどう思う。ヴァージンかどうか」
「俺の知ったことじゃない」
「ねえ、六ちゃんとらしいのよ」
「で、お前が嫉くというのか、くだらんね。ところで昨夜は、六ちゃんのところへ泊った。それをわざわざ云うあたり、お前の間が抜けてるところさ」
「どうして間が抜けてるんでしょうね。云ったっていいじゃないの」
「反応をみようとしたが、あにはからんや」
「ほっておいて下さいよ。つべこべつべこべうるさいったら」
 蓬莱和子は、南原杉子が仁科六郎とどんな交渉しているかということよりも、仁科六郎に対する彼女の感情を知りたいのだ。
 ――いい加減。私に嫉妬するなり、苦しんだり、それを私に信用ある私に、打ち明けようとすればいい。不気味な愛慾。アネモネの花――
 蓬莱和子は、南原杉子を少し憎みはじめた。南原杉子は、度々カレワラに現れるのだが、仁科六郎のことには一言もふれないのである。そして又、仁科六郎も蓬莱和子に沈黙。
「その包み何だい」
 建介は大きな箱の風呂敷包がまだ放り出してあることが気になった。
「何だっていいいわよ」
 蓬莱和子は、乱暴にそれを奥の部屋へ持ちはこぶと、すぐピアノの蓋をあけた。ピアノの音は間違いだらけだし、声はヒステリックにわめいている。
 ――案外、妻のいいところが発見出来たものだ――
 夫は苦笑しながらカレワラを出た。

 南原杉子は、午後の鋪道をいそいで歩いていた。楽譜屋から、レッスン場へむかっている。新しく輸入されたフランクの楽譜を買ったので早速ひこうとしている。彼女は歩いている時、あちこちみてはいない。正しい歩調で、まっすぐ前を凝視しているが、もう無意識のうちに、そのポーズが身についていて、頭の中では種々考えているわけだ。
 ――あの人に四日も会っていないのだわ。私は不安。阿難が不安なのだ。さみしがっている。蓬莱和子と昨日一しょなのだ――
 彼女は、放送会社の方へ歩く方針をかえた。その時、後から肩をたたかれた。
「阿難」

 傍の喫茶店の奥まったところに二人は向い会って坐った。仁科六郎は、紡績会社へ二度程電話をした。二度とも彼女は不在であった。とにかくどうしても今日会わねばならないと思っていたのだ。阿難も又会いたかったのだ。
「会いたかったのよ」
「僕もだ」
「何故かしら」
「僕もわからない」
「でも、会ってほっとした」
「そうだ」
 二人とも不安も疑惑も消えてしまっている。きく必要のないことはきかない。又云う必要のないことは云わない。これは仁科六郎の信条であった。南原杉子はちがう。彼女はきく必要がなくても相手の返答をたのしみたい。云う必要のない時も云ってみたらという好奇心がある。ところが阿難は、もう完全に仁科六郎を信じて疑わなかったから何も云わないのだ。阿難は、南原杉子と異質である。恋をする女である。嫉妬もする。だからこそ、仁科六郎に会う迄、心に不安があったのだ。向いあった今、それはすっかり消えている。
「阿難は幸せだと思うわ」
 阿難はにっこり笑う。仁科六郎も笑ってうなずいた。と、テーブルの下に置いてあった楽譜がふと床下に落ちて、仁科六郎のあしもとにころがった。
「楽譜?」
「ええ」
「誰の」
「阿難のよ。阿難、ピアノ弾くのよ」
「何故、今までかくしていたの」
「云う機会がなかったもの、阿難が弾くと云う時は、ピアノの傍でひきはじめる時よ」
「すごい自信だね」
「ええ、但し、近代もの以外は人の前でひけないのよ」
「きかせてほしい」
「即物的じゃないわよ」
「何でもいいききたい」
「何でもいいとはひどいわ。私、自分のひき方を決めてあるわ。いろいろ変えたけど。でも、ラヴェール、ドビュッシーあたりがひけると思うだけよ」
「誰に習った?」
「あなたの知ってる人、大方に師事したけどみんないやでよしたの。後は、レコード勉強と、本勉強よ」
「どうしてピアニストにならなかった?」
「あら、これからなるかも知れなくてよ」
 阿難が喋るのだ。恋をする女は恋人を前たして喜びにみちている。
「お暇なら、これからきかせてあげる」
「どこで」
 阿難は笑ったが何も云わずに冷いのみもののストローに口をつけた。



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