久坂葉子「ドミノのお告げ」(4) (どみののおつげ)

久坂葉子「ドミノのお告げ」(4)

 またある日。
 私と信二郎と叔母と春彦と、カードをしておりました。父は相変らずぜいぜい云って隣の室で喘いでおります。
「ハート一つ」
 くばられたカードのうち六枚もハートがあります。そうしてオーナが四つもあるのです。
「クラブ二つ」
「ハート二つ」
「クラブ三つ」
「ハート三つ」
 サイドカードもこんなにいい。それに、手にクラブがないから最初っからきれるわけです。私は得意になってせりあげました。ハートに決まります。叔母と組になっているのですが、開いた叔母の持札も割合にいいのです。四つとって一勝負つけてしまいました。
「ビヤンジュエ、マドモアゼル」
 叔母が私の手を握って喜びました。二十年もの昔、巴里で仏蘭西人と、プリッジをしたことがある叔母はよく云いました。そして彼等の勝負好きの話や怒りっぽいことなどもききました。私達は弟のために勝負事をやめようと決心した翌日から、またやりだしておりました。隣から父がそのさわぎに遂々怒り出しました。
「はやくねろ、十一時すぎだぞ」
 私達はこそこそと渡り廊下を渡って叔母達の部屋である茶室に退去しました。そこで一時頃までブリッジをつづけました。
「また明日、おやすみなさい」
 私と信二郎は夜風のふき通しの、渡り廊下を走るようにして戻って来ました。母はうすぐらいところで東京の叔母へ手紙をかいておりました。肩越しにのぞくと、私の結婚の依頼がなめなめとかかれてありました。私は苦笑しながら自分の部屋にはいり、ふと結婚についてかんがえだしました。二十七だという年令がまっさきに頭に浮びます。婚期とは幾つにはじまって幾つに終るのか、ともかく私はもう若くもないと思っておりました。今迄、何をしていたのでしょう。同級の人達は随分お嫁に行ってます。子供までいる人も少なくありません。未だ一人でいる人は一人なりに学校の先生をするなり、会社で秘書をするなりそれぞれはっきりとした生き方をしております。私だけがあぶはちとらずなどうにも動きようのない恰好でいるじゃありませんか。私は「女性失格」だろうと自分でそう思います。今迄、縁談は数える程しかありませんでした。みんなことわられてしまっておりました。一番最初の縁談の時、私はまだ二十歳前で元気一杯でおりました。相手の方は外交官の令息で立派な青年紳士でした。どこも欠点のないような方でしたけれど、それが如何にも社交なれた赤裸々でない感じがし、私は好きになれませんでした。派手な社交は私の性に合いません。お部屋の熊の毛皮の上にたって大勢の御知合に紹介された時、どぎまぎして夢中でハンカチをにぎりしめておりました。そんな私ですから、当然のようにおことわりがまいりました。父母は大変落胆しましたが、私はほっとしたのでした。とにかく、強がりな我無しゃらな私ですけれど反面、意気地のない気弱なところもあります。それが今日までどっちつかずのままいさせたのかも知れません。今更、結婚ということを重大視も致しませんし、どんな人でもいいと思っているのです。いずれはこの家を出てゆかねばなりません。私は生家への愛着など微塵も持っておりませんし一生独身で通そうとも思っておりません。水の流れにぽんと体をおいて、何処まででも行って頂戴、行きつくところで私は落ち着きます、と云った気持でこの頃はおりますものの、肝じんの縁談もなく、ますます若さがすりへってゆくようなさみしさと、それに対するあせりを感じないでもありません。
「母様、貴族や華族の部類はやめておいた方がいいわよ」
 他所言のようにそう云って私はひとりでクックッ笑ってしまいました。
「それよりお金のある方がいいんでしょう」
 母は軽くそう云いました。
 寝床にはいってから明日の予定をたてました。お天気がよかったら京都へあそびに行こうと決心しました。紅葉が丁度よい頃です。ぶらぶら人の行かないような道を選んで歩くのが私は好きでした。二三目前に、ピアノの売買を世話してわずかな謝礼金がはいりましたから、それで一日のんびりして来ようとほくほくしながら眠りについたのでした。



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