世界怪談名作集07 ヴィール夫人の亡霊(02) (ヴィール)

世界怪談名作集07 ヴィール夫人の亡霊(02)

 この実家で、一七〇五年九月八日の午前に、バーグレーヴ夫人はひとりで坐りながら、自分の不運な生涯を考えていた。そうして、自分のこうした逆境もみな持って生まれた運命であると諦《あきら》めなければならないと、自分で自分に言い聞かせていた。そうして彼女はこう言った。
「私はもう前から覚悟をしているのであるから、運命にまかせて落ち着いていさえすればいいのだ。そうして、その不幸も終わるべき時には終わるであろうから、自分はそれで満足していればいいのだ」
 そこで、彼女は自分の針仕事を取りあげたが、しばらくは仕事を始めようともしなかった。すると、ドアをたたく音がしたので、出て見ると、乗馬服を着けたヴィール夫人がそこに立っていた。ちょうどその時に、時計は正午の十二時を打っていた。
「あら、あなた……」と、バーグレーヴ夫人は言った。「ずいぶん長くお目にかからなかったので、あなたにお逢いすることが出来ようとは、ほんとうに思いも寄りませんでした」
 それからバーグレーヴ夫人は彼女に逢えたことの喜びを述べて、挨拶の接吻を申し込むと、ヴィール夫人も承諾したようで、ほとんどお互いの口唇《くちびる》と口唇とが触れ合うまでになったが、手で眼をこすりながら「わたしは病気ですから」と言って接吻をこばんだ。彼女は旅行中であったが、何よりもバーグレーヴ夫人に逢いたくてたまらなかったので尋《たず》ねて来たと言った。
「まあ、あなたはどうして独り旅なぞにおいでになったのです。あなたには優しい弟さんがおありではありませんか」
「おお!」とヴィール夫人が答えた。「わたしは弟に内証で家を飛び出して来ました。わたしは旅へ立つ前に、ぜひあなたに一度お目にかかりたかったからです」
 バーグレーヴ夫人は彼女と一緒に家《うち》へはいって、一階の部屋へ案内した。
 ヴィール夫人は今までバーグレーヴ夫人が掛けていた安楽椅子に腰をおろして、「ねえ、あなた。私は再び昔の友情をつづけていただきたいと思います。それで今までのご無沙汰《ぶさた》のお詫《わ》びながらに伺ったのです。ねえ、ゆるして下さいな。やっぱりあなたは私のいちばん好きなお友達なのですから」と、口をひらいた。
「あら、そんなことを気になさらなくってもいいではありませんか。私はなんとも思ってはいませんから、すぐに忘れてしまいます」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
「あなたは私をどう思っていらっしゃって……」と、ヴィール夫人は言った。
「別にどうといって……。世間の人と同じように、あなたも幸福に暮らしていらっしゃるので、私たちのことを忘れているのだろうと思っていました」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
 それからヴィール夫人はバーグレーヴ夫人にいろいろの昔話をはじめて、その当時の友情や、逆境当時に毎日まいにち取りかわしていた会話のかずかずや、たがいに読み合った書物、特におもしろかった「死」に関するドレリンコートの著書――彼女はこうした主題の書物では、これがいちばんいいものであると言っていた――のことなどを思い出させた。それからまた、彼女はドクトル・シャロック(英国著名の宗教家)のことや、英訳された「死」に関するオランダの著書などについて語った。
「しかし、ドレリンコートほど死と未来ということを明確に書いた人はありません」と言って、彼女はバーグレーヴ夫人に何かドレリンコートの著書を持っていないかと訊《き》いた。
 持っているとバーグレーヴ夫人が答えると、それでは持って来てくれと彼女は言った。
 バーグレーヴ夫人はすぐに二階からそれを持って来ると、ヴィール夫人はすぐに話し始めた。
「ねえ、バーグレーヴさん。もしも私たちの信仰の眼が肉眼のように開いていたら、私たちを守っているたくさんの天使《エンジェル》が見えるでしょうに……。この書物でドレリンコートも言っているように、天国というものはこの世にもあるのです。それですから、あなたも自分の不運を不運と思わずに、全能の神様が特にあなたに目をお掛け下すっているのですから、不運が自分の役目だけを済ませてしまえば、きっとあなたから去ってしまうものと信じていらっしゃい。そうして、どうぞ私の言葉をも信じて下さい。あなたの今までの苦労なぞは、これからさきの幸福の一秒間で永遠に酬《むく》われます。神様がこんな不運な境遇にあなたの一生を終わらせるなどということは、私にはどうしても信じられません。もう今までの不運もあなたから去ってしまうか、さもなければ、あなたのほうでそれを去らせてしまうであろうと、私は確信しているのです」
 こう言いながら彼女はだんだんに熱して来て、手のひらで自分の膝を叩いた。そのときの彼女の態度は純真で、ほとんど神のように尊くみえたので、バーグレーヴ夫人はしばしば涙を流したほどに深く感動した。
 それからヴィール夫人はドクトル・ケンリックの「禁欲生活」の終わりに書いてある初期のキリスト信者の話をして、かれらの生活を学ぶことを勧めた。かれらキリスト信者の会話は現代人の会話と全然ちがっていたこと、すなわち現代人の会話は実に浮薄で無意味で、古代のかれらとは全然かけ離れている。かれらの言葉は教訓的であり、信仰的であったが、現代人にはそうしたところは少しもない。私たちはかれらのしてきたようにしなければならない。また、かれらの間には心からの友情があったが、現代人には果たしてそれがあるかというようなことを説いた。
「ほんとうに今の世の中では、心からの友達を求めるのはむずかしいことですね」と、バーグレーヴ夫人も言った。
「ノーリスさんが円満なる友情と題する詩の美しい写本を持っていられましたが、ほんとうに立派なものだと思いました。あなたはあの本をご覧になりましたか」
「いいえ。しかし私は自分で写したのを持っています」
「お持ちですか」と、ヴィール夫人は言った。「では、持っていらっしゃいな」
 バーグレーヴ夫人は再び二階から持って来て、それを読んでくれとヴィール夫人に差し出したが、彼女はそれを拒《こば》んで、あまり俯向《うつむ》いていたので頭痛がして来たから、あなたに読んでもらいたいと言うので、バーグレーヴ夫人が読んだ。こうして、この二人の夫人がその詩に歌われたる友情をたたえていた時、ヴィール夫人は「ねえ、バーグレーヴさん。私はあなたをいつまでもいつまでも愛します」と言った。その詩のうちには極楽という言葉を二度も使ってあった。
「ああ、詩人たちは天国にいろいろの名をつけていますのね」と、ヴィール夫人は言った。
 そうして、彼女は時どきに眼をこすりながら言った。「あなたは私が持病の発作《ほっさ》のために、どんなにひどく体をこわしているかをご存じないでしょう」
「いいえ。私には、やっぱり以前のあなたのように見えます」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
 すべてそれらの会話は、バーグレーヴ夫人がとてもその通りに思い出して言い現わすことが出来ないほど、非常にあざやかな言葉でヴィール夫人の亡霊によって進行したのであった。
(一時間と四十五分をついやした長い会話を全部おぼえていられるはずもなく、また、その長い会話の大部分はヴィール夫人の亡霊が語っているのである。)
 ヴィール夫人は更にバーグレーヴ夫人にむかって、自分の弟のところへ手紙を出して、自分の指輪は誰だれに贈ってくれ、二カ所の広い土地は彼女の従兄弟《いとこ》のワトソンに与えてくれ、金貨の財布は彼女の私室《キャビネット》にあるということを書き送ってくれと言った。
 話がだんだんに怪しくなってきたので、バーグレーヴ夫人はヴィール夫人が例の発作におそわれているのであろうと思った。ひょっとして椅子から床へ倒れ落ちては大変だと考えたので、彼女の膝の前にある椅子に腰をかけた。こうして、前の方を防いでいれば、安楽椅子の両側からは落ちる気づかいはないと思ったからであった。それから彼女はヴィール夫人を慰めるつもりで、二、三度その上着の袖を持ってそれを褒《ほ》めると、ヴィール夫人はこれは練絹《ねりぎぬ》で、新調したものであると話した。しかも、こうした間にもヴィール夫人は手紙のことを繰り返して、バーグレーヴ夫人に自分の要求を拒《こば》まないでくれと懇願するのみならず、機会があったら今日の二人の会話を自分の弟に話してやってくれとも言った。
「ヴィールさん、私にはあまり差し出がましくて、承諾していいか悪いか分かりません。それに、私たちの会話は若い殿方《とのがた》の感情をどんなに害するでしょう」と、バーグレーヴ夫人は渋るように言って、「なぜあなたご自身でおっしゃらないのです。私はそのほうがずっといいと思います」と付けたした。
「いいえ」と、ヴィール夫人は答えた。「今のあなたには差し出がましいようにお思いになるでしょうが、あとであなたにもわかる時があります」
 そこで、バーグレーヴ夫人は彼女の懇願を容《い》れるために、ペンと紙とを取りに行こうとすると、ヴィール夫人は、「今でなくてもよろしいのです。私が帰ったあとで書いてください、きっと書いて下さい」と言った。別れる時には彼女はなお念を押したので、バーグレーヴ夫人は彼女に固く約束したのであった。
 彼女はバーグレーヴ夫人の娘のことを尋《たず》ねたので、娘は留守であると言った。「しかし、もし逢ってやって下さるならば、呼んで来ましょう」と答えると、「そうして下さい」と言うので、バーグレーヴ夫人は彼女を残しておいて、隣りの家へ娘を探しに行った。帰って来てみると、ヴィール夫人は玄関のドアの外に立っていた。きょうは土曜日で市《いち》の開ける日であったので、彼女はその家畜市のほうを眺めて、もう帰ろうとしているのであった。
 バーグレーヴ夫人は彼女にむかって、なぜそんなに急ぐのかと訊《たず》ねると、彼女はたぶん月曜日までは旅行に出られないかもしれないが、ともかくも帰らなければならないと答えた。そうして、旅行する前にもう一度、従兄弟《いとこ》のワトソンの家でバーグレーヴ夫人に逢いたいと言った。それから彼女はもうお暇《いとま》をしますと別れを告げて歩き出したが、町の角を曲がってその姿は見えなくなった。それはあたかも午後一時四十五分過ぎであった。





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