世界怪談名作集02 貸家(02) (かしや)
世界怪談名作集02 貸家(02)
しかし、私は非常に差し迫った仕事をかかえているので、その日の残りの時間は専《もっぱ》らその仕事についやさなければならなかった。わたしは自分の名誉を賭《か》けたる今夜の冒険について、あまり多く考える暇《ひま》を持たないほどに忙《いそが》しく働いた。わたしは甚《はなは》だ遅くなってから、ただひとりで夕飯を食った。食うあいだに何か読むのが私の習慣であるので、わたしはマコーレーの論文の一冊を取り出した。そうして、今夜はこの書物をたずさえて行こうと思った。マコーレーの作は、その文章も健全であり、その主題も実生活に触れているので、今夜のような場合には、迷信的空想に対する一種の解毒剤《げどくざい》の役を勤めるであろうと考えたからである。
午後九時半頃に、かの書物をポケットへ押し込んで、わたしは化け物屋敷の方へぶらぶらと歩いて行った。わたしはほかに一匹の犬を連れていた。それは敏捷で、大胆で、勇猛なるブルテリア種の犬で、鼠をさがすために薄気味のわるい路の隅や、暗い小径《こみち》などを夜歩きするのが大好きであった。かれは幽霊狩りなどには最も適当の犬であった。
時は夏であったが、身にしむように冷えびえする夜で、空はやや暗く曇っていた。それでも月は出ているのである。たといその光りが弱く曇っていても、やはり月には相違ないのであるから、夜半《よなか》を過ぎて雲が散れぱ、明かるくなるであろうと思われた。
かの家にゆき着いて戸をたたくと、わたしの雇い人は愉快らしい微笑を含んで主人を迎えた。
「支度は万事できています。すこぶる上等です」
それを聞いて、わたしはむしろ失望した。
「何か注意すべきようなことを、見も聞きもしなかったか」
「なんだか変な音を聞きましたよ」
「どんなことだ、どんなことだ」
「わたくしのうしろをぱたぱた通るような跫音《あしおと》を聞きました。それから、わたくしの耳のそばで何かささやくような声が一度か二度……。そのほかには何事もありませんでした」
「怖《こわ》くなかったか」
「ちっとも……」
こう言う彼の大胆な顔をみて、何事が起こっても彼はわたしを見捨てて逃げるような男でないということが、いよいよ確かめられた。
わたしたちは広間へ通った。往来にむかった窓はしまっている。わたしの注意は今やかの犬の方へ向けられたのである。犬もはじめのうちは非常に威勢よく駈け廻っていたが、やがてドアの方へしりごみして、しきりに外へ出ようとして引っ掻いたり、泣くような声をして唸《うな》ったりしているので、私はしずかにその頭をたたいたりして勇気をつけてやると、犬もようよう落ち着いたらしく、私とFのあとについて来たが、いつもは見識《みし》らない場所へ来るとまっさきに立って駈け出すにもかかわらず、今夜はわたしの靴の踵《かかと》にこすりついて来るのであった。
私たちはまず地下室や台所を見まわった。そうして、穴蔵に二、三本の葡萄酒の罎《びん》がころがっているのを見つけた。その罎には蜘蛛《くも》の巣が一面にかかっていて、多年そのままにしてあったことが明らかに察せられると同時に、ここに棲む幽霊が酒好きでないことも確かにわかったが、そのほかには別に私たちの興味をひくような物も発見されなかった。外には薄暗い小さな裏庭があって、高い塀にかこまれている。この庭の敷石はひどくしめっているので、その湿気とほこりと煤煙《ばいえん》とのために、わたしたちが歩くたびに薄い足跡が残った。
わたしは今や初めて、この不思議なる借家において第一の不思議を見たのである。
わたしはあたかも自分の前に一つの足跡を見つけたので、急に立ちどまってFに指さして注意した。一つの足跡がまたたちまち二つになったのを、わたしたちふたりは同時に見た。ふたりはあわててその場所を検査すると、わたしの方へむかって来たその足跡はすこぶる小さく、それは子供の足であった。その印象はすこぶる薄いもので、その形を明らかに判断するのは困難であったが、それが跣足《はだし》の跡であるということは私たちにも認められた。
この現象は私たちが向うの塀にゆき着いたときに消えてしまって、帰る時にはそれを繰り返すようなこともなかった。階段を昇って一階へ出ると、そこには食堂と小さい控室がある。またそのうしろには更に小さい部屋がある。この第三の部屋は下男の居間であったらしい。それから座敷へ通ると、ここは新しくて綺麗であった。そこへはいって、わたしは肘かけ椅子に倚《よ》ると、Fは蝋燭立てをテーブルの上に置いた。わたしにドアをしめろと言いつけられて、彼が振りむいて行ったときに、わたしの正面にある一脚の椅子が急速に、しかもなんの音もせずに壁の方から動き出して、わたしの方から一ヤードほどの所へ来て、にわかに向きを変えて止まった。
「ははあ、これはテーブル廻しよりもおもしろいな」と、わたしは半分笑いながら言った。
そうして、わたしがほんとうに笑い出したときに、わたしの犬はその頭をあとへひいて吠《ほ》えた。
Fはドアをしめて戻って来たが、椅子の一件には気がつかないらしく、吠える犬をしきりに鎮めていた。わたしはいつまでもかの椅子を見つめていると、そこに青白い靄《もや》のようなものが現われた。その輪郭《りんかく》は人間の形のようであるが、わたしは自分の眼を疑うほどにきわめて朦朧たるものであった。犬はもうおとなしくなっていた。
「その椅子を片付けてくれ。むこうの壁の方へ戻して置いてくれ」と、わたしは言った。
Fはその通りにしたが、急に振りむいて言った。
「あなたですか。そんなことをしたのは……」
「わたしが……。何をしたというのだ」
「でも、何かがわたくしをぶちました。肩のところを強くぶちました。ちょうどここの所を……」
「わたしではない。しかし、おれたちの前には魔術師どもがいるからな。その手妻《てづま》はまだ見つけ出さないが、あいつらがおれたちをおどかす前に、こっちがあいつらを取っつかまえてやるぞ」
しかし、私たちはこの座敷に長居することはできなかった。実際どの部屋《へや》も湿《しめ》っぽくて寒いので、わたしは二階の火のある所へ行きたくなったのである。私たちは警戒のために座敷のドアに錠《じょう》をおろして出た。今まで見まわった下の部屋もみなそうして来たのであった。
Fがわたしのためにえらんでおいてくれた寝室は、二階じゅうでは最もよい部屋で、往来にむかって二つの窓を持っている大きい一室であった。規則正しい四脚の寝台が火にむかって据えられて、ストーブの火は美しくさかんに燃えていた。その寝台と窓とのあいだの壁の左寄りにドアがあって、そこからFの居間になっている部屋へ通ずるようになっていた。
次にソファー・ベッドの付いている小さい部屋があって、それは階段の昇《あが》り場になんの交通もなく、わたしの寝室に通ずるただ一つのドアがあるだけであった。
寝室の火のそばには、衣裳戸棚が壁とおなじ平面に立っていて、それには錠をおろさずに、にぶい鳶《とび》色の紙をもっておおわれていた。試みにその戸棚をあらためたが、そこには女の着物をかける掛け釘があるばかりで、ほかには何物もなかった。さらに壁を叩いてみたが、それは確かに固形体で、外は建物の壁になっていた。
これでまず家じゅうの見分《けんぶん》を終わって、わたしはしばらく火に暖まりながらシガーをくゆらした。この時まで私のそばについていたFは、さらにわたしの探査を十分ならしめるために出て行くと、昇り口の部屋のドアが堅くしまっていた。
「旦那」と、彼は驚いたように言った。「わたくしはこのドアに錠をおろした覚えはないのです。このドアは内から錠をおろすことは出来ないようになっているのですから……」
その言葉のまだ終わらないうちに、そのドアは誰も手を触れないにもかかわらず、また自然にしずかにあいたので、私たちはしばらく黙って眼を見あわせた。化け物ではない、何か人間の働きがここで発見されるであろうという考えが、同時に二人の胸に浮かんだので、わたしはまずその部屋へ駈け込むと、Fもつづいた。
そこは家具もない、なんの装飾もない、小さい部屋で、少しばかりの空き箱と籠《かご》のたぐいが片隅にころがっているばかりであった。小さい窓の鎧戸《よろいど》はとじられて、火を焚くところもなく、私たちが今はいって来た入り口のほかには、ドアもなかった。床には敷物もなく、その床も非常に古くむしばまれて、そこにもここにも手入れをした継ぎ木の跡が白くみえた。しかもそこに生きているらしい物はなんにも見えないばかりか、生きている物の隠れているような場所も見いだされなかった。
私たちが突っ立って、そこらを見まわしているうちに、いったんあいたドアはまたしずかにしまった。二人はここに閉じこめられてしまったのである。
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